狭い道


(1)
ここ何ヶ月か、仕事がめっきり少なくなった。友人に聞いても、仕事が減っているという。かなりやばくなってきたので、祈っていただきたい。

私は、大学を卒業するころ、本当に困ったのは、やりたい仕事がなかったということだ。どの仕事もぴったり来ない。そんなこと言っていても仕方がないので就職したが、やはりピンとこない。

貿易の仕事自体は、おもしろかった。輸出ドキュメントを作成し、船のブッキングをする。営業に回されてからは、合わないOJTの相手にあたって苦労した。

神学校に入って本当に水を得た魚のようになった。大学時代に、聖書研究部でヘンリー・シーセンの『組織神学』の勉強会をしたときに、自分の適性がここにあるとわかっていたが、牧師になる気はなかった。

牧師になる気もないのに神学校に入っても仕方がないと思っていたので、行き先不明のまま社会に出た。

神学校に入り、若い社会人の担当として奉仕しているときに、本当に自分の賜物が生かされていると感じた。しかし、主任牧師は、卒業後私に地方の教会に私を派遣した。

会社に入ったのと同じ感覚がよみがえった。つまり、合わないのだ。経験者は分かるだろうが、合わない仕事をやると自分だけではなく、周りの人々をも不幸に巻き込む。

我々は、遺伝的欠陥のある分野に仕事を求めるべきではないのだ。

私は、学者の才能はない。しかも、今の学問はノンクリスチャンの体系だから、学者の世界に入ることに興味がまるで湧かない。

今でも自分には、既存のシステムの中において居場所はないと考えている。

既存のキリスト教にも居場所はない。体制は、批判精神を嫌う。私はどこからも受け入れられないだろう。

(2)
新しい情報を得て、それを信じ、しかもそれが真理である場合に、我々は、既存のシステムから飛び出たのだ。永遠に逆戻りできない道に入った。

つまり、我々は新しい思想を身に付けた瞬間にアウトローになった!

これはキツい道である。だから、孤立に耐えられない人間は、我々の文章を読んだ瞬間に「なかったこと」にしようとする。

目の前に広がる道はあまりにも荒い。

多くの友人を失うだろう。

人々の目に我々は傲慢に映るだろう。

無数の誤解を受けるだろう。

サタンの猛烈な攻撃を受けるだろう。

ガンガン足をひっぱられるだろう。

私は、献身をしようとする人々に、絶対に「輝かしい未来が開けます」なんて言えない。

献身の時に与えられた御言葉「自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」は真実だった!

自分を捨てる覚悟がなければ、献身なんてしてはならない。

(3)
私は超教派の活動をしているわけではない。

私は聖書信仰主義の活動をしている。

だから、聖書を最高権威としない教派の人々を巻き込む教派横断的な運動をするつもりはまったくない。

これは、支持者を獲得することを難しくする。実際、こちらが論を進めれば進めるほど、ついていけなくなる人が増える。

しかし、思想というものは、徹底しなければ意味がない。

いいかげんな思想は、いずれ批判を受けて捨てられる。

時間の審判に耐えられない。

(4)
私は、この社会の中において翻訳などアルバイトをしながら、研究を進める以外には選択の道はないと思っている。

どこかへ出かけて行って、宣伝活動をすることも時間がもったいなく感じる。

次第に明らかになりつつある神からの示し、教えを体系的に記述すること以外に自分の人生においてやるべきことはない。

「狭い門から入り、狭い道に進め」。

これは使命を帯びた人々に共通する感覚だろうと思う。

つまり、人生においてやるべきことは、神が決定しており、その道は限られており、それは年齢を重ねるごとにますます狭くなっていくのだ。

職業選択の自由というのはあくまでも制度上のことであって、こと個人に関する限り、それはひどく限定されている。

内村鑑三が述べたように、「私は、いろんなことを試みたが、御心だけがなった」と感じる。

 

 

2007年8月28日

 

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