暴力による支配は邪道である
歴史や世界はクリスチャンのためにあるが、所有の方法は略奪ではなく、合法的でなければならない、というと、「それでは、一般の人々と同様ではないか。それが所有者と言えるのか?」と訊かれるかもしれない。
聖書では、
(1)権威付与の宣言。
(2)その実践。
という2段階を踏んでいる。
つまり、マタイ28章などのように、まずキリストによる「天においても地においても一切の権威が与えられた」との宣言があって、その後に「だから、行って全世界の国民を弟子とせよ」との命令がある、という書き方がされているのだ。
他の個所でも、イエスは「悪霊を追い出す権威を弟子に与えて」、それから「行け」と実践を命令された。
我々は、何においても、「権威」が必要である。上位者から「正当性」をいただかなければならない。
我々が私服で、道路に立って笛を吹き、車をとめようとしてもとまる者は誰もいないだろう。
しかし、警察官になり、制服を着て道路に立てば、車は制止命令に従うだろう。
なぜか?権威が付与されているから。警察官は国から権威を与えられているから車を制止させられるのである。
聖書は、まず根拠を明示する。
マタイ28章において、「キリストは天地の王である」との権威宣言がある。
そしてその次に実践が命令されている。
「行って、すべての国民を弟子とせよ。」と。
だから、プレ・ミレのように、クリスチャンが負けるとか、クリスチャンは伝道に失敗する、などと考えてはならないのである。
世界の弟子化は実現するのだ。
なぜならば、クリスチャンにはキリストの権威が付与されているから。
クリスチャンには、世界を変え、すべての国民をクリスチャンにし、彼らにバプテスマを授けて、キリストが命令したすべてのことを教える権威が与えられているのだ。
だから、それができる。
きわめて単純な理屈である。
この信仰をポスト・ミレという。
クリスチャンはキリストにあって全世界の所有者である。
しかし、だからといって、略奪や暴力によって所有を実践すべきではない。
所有の仕方は、伝道と教育オンリーである。
「バプテスマを授け」「キリストの命令をすべて教える」ことによって、世界征服は実現する。
もちろん、バプテスマは自発的である。人々が自分から進んで受けるものである。
つまり、この過程はすべて聖霊の働きによる自発的回心が基本となるということなのである。
諸国民が弟子となる時に、彼らは所有物を神にお返しすることを願うようになる。すべてをお返しします、とのしるしとして十分の一を捧げる。政治も経済も、あらゆるものを神の主権のもとで行うようになる。
こうして、キリストは実際に世界の王になるのである。
その時、キリストにつながるクリスチャンも実際に王になる。
これが世界を所有する方法である。これ以外の方法は、邪道である。
アメリカ宗教右派とシオニストの、暴力による支配の方法は、邪道である。
2004年8月10日
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