対人恐怖は偶像礼拝の結果である4


「人を恐れるとわなにかかる。」(箴言29:25)

日本人は、生まれたときから、「集団は絶対だ」との教育を受けます。普通の人間なら集団に適合するものだと。私も同じ教育を受けてきたので、聖書的な人間関係を身につけるのに時間がかかりました。
昔、オリンピックのフィギュアスケートを見ると、不愉快になった。なぜならば、自分と比較して選手たちが優れていると思ったからです。「彼らはこんなにすばらしい演技を多くの人に見せている。それに比べて俺は・・・」と。

これって、日本人特有の発想らしいです。なぜならば、自分とフィギュアスケート選手とはいかなる接点もないからです。いかなる接点もない人間と比較してもしかたがない。

自分の領域ではない人と比較してもはじまらない。かつて自分がこういう思考方法をしていたので、私は今の高校生や大人が、何か優れたものを見ると「私はたいしたことないから」とひがみの反応をするのが理解できます。

日本の学校教育を受けると、「何でも優れたものを見るとひがみ、劣ったものを見ると優越感にひたる」のです。これって無駄。労力とエネルギーと感情の無駄。

人は人、自分は自分。比較の対象ではない。聖書的な思考方法はまったく違う。

聖書は、それぞれが器官であると教えています。

目は目の役割を果たすために選ばれている。口は口、手は手。それぞれ自分に与えられた役割を果たすために「違ったものとして」作られている。だから、「口」である自分の努力は、「目」にあこがれることでも、「耳」になることでもない。

口として与えられた能力を十分に発揮することです。

こういう発想が学校教育において禁止された。

聖書的に考えることができるようになって、際限のないひがみとうらやみ、妬みから解放されました。

聖書的な努力とは、いろんなものになることではなく、「自分に与えられた使命を果たすために、才能をどのように開花させるか」です。

一生は一度しかない。その一生を自分を開花させないで終わったら大変なことになります。だから、自分の能力が何であり、それをどうすれば開花させて、後悔をしない人生を送ることができるかを考える必要があります。

だから、「気を散らされること」から解放される必要がある。その中には「他の才能をうらやむこと」も含まれている。

自分の才能を確認したら(他人がどう自分を評価しているか、仕事の依頼が継続してあるか?などを基準として判断)、できるだけ無関係なことを切り捨てて、その開花のために集中すべきです。

自分にゴルファーの才能があるとわかったら、懸命にゴルフの上達に打ち込むことです。

 

 

2010年4月14日

 

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