中身だけではなく表現にも気をつけるべきだ
先日ラブホテルから飛び降り自殺した牧師は、晩年不良のような格好をして講壇に立っていた。
鍵か財布にジャラジャラ音のする鎖をつけ、上下黒っぽい私服を着てメッセージをしていた。
これは、友人で有名な伝道者が暴走族の格好をしているのを真似たからではないかと思う。
以前から彼らの不良っぽい服装には批判があった。
私は、いくら伝道のためとはいえ、相手に合わせすぎではないかと思う。
人間は象徴によって影響を受ける。服装は人間の心に大きな影響を与える。
なぜならば、神が人間をそのように創造されたからである。
今のクリスチャンは「外見は関係ない。形式は関係ない。」と考える傾向がある。
華美なカトリック教会の装飾を嫌ったプロテスタントは、質素な教会を建築した。
プロテスタントは、カトリックへの反動として「象徴」を軽視した。
しかし、この世界は神の象徴で満ちている。
アリは、勤勉者の象徴である(箴言6・6-7、30・25)。
太陽と金とエデンの園、月と銀とエデン、地球と銅と陸は、3段階の栄光の象徴である。
物質的表象が神の世界においていかに重要であるかお分かりだろうか。
昔、バプテスト教会に所属していたころ、牧師が「聖餐は単なる儀式ですからやりません。」と宣言した。
その反面、バプテスマの形式(浸礼)に異様にこだわっていた。
当時、アメリカでは聖書を腰掛けがわりにする牧師もいると聞いた。
よくない。人間は神の被造物なので、心とその表現方法を切り離すことはできない。
心には、それに相応しい表現方法が伴うべきだ。
聖書を尊重するならば、そこに腰を掛けてはならない。
職業には、それにふさわしい服装があるべきだ。
警察は威厳のある制服を着るべきだ。
牧師は、神の愛と祝福と威厳を表現するきちんとした服装をするべきだ。
中身がよければ外見はどうでもいいというような考えは間違いである。
いやむしろ、象徴は、中身に影響を与えるので、きちんとした服装をしないと悪霊の影響を受けやすくなるだろう。
刺青の竜に目を入れるとその主に邪悪な影響があると聞く。
我々は中身だけではなく表現にも気をつけるべきだ。
2007年1月18日
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