なぜ聖書は正しいのか3


「いや、たとえ自然現象を見ても、ノンクリスチャンはそれが神の技、証拠とは見ないでしょう。『単なる自然に起こった事象』としか見ないでしょう」というかもしれない。

それは、ありえない。

なぜならば、自然とは、「神が証拠として提示」したものであるから。

神が証拠としたものを「証拠じゃない」と言っても意味はない。

なぜならば、神だから。

神とは、主権者なのだ。神が何か言ったら、それはこの世界における最高の法になる。

神の宣言は絶対だ。

神が自然を「神存在の証拠」として提示された、と宣言されたならば、我々はそのとおり「自然は神存在の証拠である」と認めなければならない。

「いや、俺は、認めたくないね。」というならば、「じゃあ、仕方ないですね。あなたは滅びです。」ということになる。

主権者に対して最後まで抵抗する者に残されているのは滅亡以外にはない。

だから、頑固なノンクリスチャン、神の主権を徹底して拒絶する人間は、「治療のしようがない」患者、悔い改めない非行者であり、永遠の滅び、地獄に入れられるべき人間である。

だから、我々はそのような人々から手を離して、神にゆだねる以外にはない。

彼らの主張に同意して「そうですね。いくら神が証拠だ、証拠だと言っても、自然は自然でしかない。科学的に見ればそういうことにしかなりませんね。」などとクリスチャンが言うならば、神の権威を犯して、自然を権威とするというタブー(やってはならないこと)に触れたことになる。

そのような人間はクリスチャンではない。神を主権者としないクリスチャンはクリスチャンではない。

聖書は基準なのだ。

そこから出発するスタートラインなのだ。

100m走で、スタートラインを疑ってもしょうがないだろう。そこから問答無用に出発する以外にはないのだ。

 

 

2009年8月19日

 

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