救世軍はいつまでこの「牧者」を放し飼いにするのか?
<ストレイ・シープ様>
あれ、おかしいですね。「再建主義ウォッチング」の掲示板です。念のために引用します。これは彼の「信仰」の本質を暴きますね。
以下引用-----
212 ガラテヤ3:19の「天使と律法」の問題 山谷 - 2004/06/07 14:32 - 以下は、ガラテヤ3:19に見える「天使と律法」の問題についての、新約聖書神学者・山谷省吾の見解です。
「律法が、このように低い価値しか持ち得ないことは、その起源について考えても、わかる。すなわち、それは、第一に天使によって定められ、第二に仲介者の手を経て与えられている。
律法が天使によって授けられたことは、使徒行伝7:53、ヘブル書2:2そのほか、聖書以外の文献にも出ている。当時のユダヤ教は、神と人間との間に天使・神の知恵・神の語等のような中間者を立てて、両者の交通の媒介を司らせていたが、律法が神によってではなく、天使によって与えられたことは、律法の無価値を示すことになる。
ここで考えられた天使は、堕落した天使、悪しき天使、神と異なり、サタンと連合した天使であり、したがって、律法は神の意志に合しない悪鬼的・サタン的な響きを宿すことになる」
(山谷省吾『新約聖書・新訳と解釈(1)テサロニケ前後書・ガラテヤ書』長崎書店、1930年、192ページ)
上記のような、律法の制定に関わる天使的勢力を「悪鬼的・サタン的」と見る見方は、ドイツの現代の新約聖書神学者ハンス・ヒュブナーによっても採用されています。
パウロは、「中間時の中間領域の天使的勢力」あるいは「ストイケイア」(宇宙の構成に関わる諸霊、この世の諸霊)の概念を用いることにより、律法を批判的に取り扱うという神学的方法を、ガラテヤ書において使用しています。
このような方法を採らずに、<神が直接に律法を制定した>という非聖書的考え方をしてしまうと、律法を批判することは、すなわち、旧約聖書の神をデミウルゴス(悪しき神)と見てしまった、マルキオンの異端に陥ることになってしまいます。
「中間時の中間領域の天使的勢力」という概念が、いかに重要な鍵概念であるかが、わかります。
<tomi>
うわぁ、出たぁ!ってな感じですね。
山谷さん、よくもまあ、これだけ放言できるもんだって、あきれたを通り越してもうレスする気力もないわ。
「パウロは、「中間時の中間領域の天使的勢力」あるいは「ストイケイア」(宇宙の構成に関わる諸霊、この世の諸霊)の概念を用いることにより、律法を批判的に取り扱うという神学的方法を、ガラテヤ書において使用しています。」
仮に、ガラテヤ書において、律法が批判的に扱われたとしても、ローマ書においてパウロは律法を肯定しています。
以下の個所をどう解釈するのでしょうか。
「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3・31)
「信仰は律法を確立する」のですよ!山谷さん!
これはパウロの発言ではないのですかぁ???
それとも、パウロはガラテヤを書いた時と、ローマを書いたときとは別の人間になった?考え方を180度変えた???
それともパウロは内部分裂していた?
この山谷さんも、山谷省吾さんも、いったいどういう頭の構造をしているんでしょうか?ひょっとして親戚だから??
恐らく、この人たちの前提って、「聖書は一貫性がなくてもよい」というところにあるんでしょうね。
つまり、「聖書は人間の著作である。だから間違いもある。だから一貫性がなくてよい。」と。
こんなこと信じたら、聖書に信頼など置けませんよね。
そうしたら何を信じたらよいのですかぁ?我々はぁ?
せ・い・しょ・を・し・ん・じ・ら・れ・な・け・れ・ば・い・っ・た・い・な・に・を・し・ん・じ・ら・れ・る・の・で・し・ょ・う・か???
聖書を越えたと豪語する氏の思想でしょうかぁ?
いやですね。私はそんなの信じるの。
聖書を絶対的基準として信じられなければ、各人は「自分教」というのを作り出す以外にはない。そして、その自分教が絶対であると自分自身も主張できないのだから、結局、迷える衆生を虚空の中に放置することになるんですよ。
無責任だと思わないんですかね。この人。
救世軍は、いつまでこの「牧者」を放し飼いにするのでしょうか?
2004年6月7日
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