神が人間の罪を放置する例は聖書に数多く存在します。
たとえば、エモリ人の罪です。
日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。
そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。
しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。
あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。
そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」(創世記15・11-16)
ここで、神はアブラハムに、「お前の子孫は、この土地を占領するだろう。しかし、そのためには先住民の罪が満ちて裁かれる状態になっていなければならない」と言われた。
ヒューマニスト(人間中心主義者)なら「ひどいじゃないですか。エモリ人の罪を放置して、彼らが滅びるにふさわしい状態に落としいれるなんて」と言いたくなるでしょう。
人間中心に見ると、聖書はまったく意味が通らなくなります。
聖書は、徹頭徹尾神中心の書物。
人間は、神の栄光のための道具。
善を行って栄光をあらわす人もいれば、悪を行い、裁かれることによって栄光をあらわす人もいます。
すべては神の一存。
誰かが「残酷だ。あまりにもエゴイストだ」という感想を持つならば、そのように持ってください、としかいいようがありません。
これが現実だからです。
我々がどんなに優しい神様像を作ってもそれは単なる偶像にしかすぎません。
聖書はそのように神のことを描いていません。
神は計画を立てられる。
そのうちには、「Aという人に、私の栄光のために善行を行わせることにしよう」という計画もあれば、「Bという人が麻薬におぼれ、自らを腐らせるままに放置しよう」との計画も含まれている。
Aからすれば感謝だが、Bからすればいい迷惑です。
しかし、主権者は誰かという問題。
我々の創造者である神の計画に逆らうことはいっさいできません。
神はエサウとヤコブという双子のうち、まだ生まれる前から、エサウを憎んで、ヤコブを愛された。
その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。(ローマ9・11-13)
このような神の偏愛に対して人間は文句は言えません。
それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。
こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。(ローマ9・14−18)
エジプトの王パロは、頑固になって神の啓示に逆らい、モーセの民を解放しませんでした。
この「頑固」は神から来ました。「神は、人をみこころのままに・・・かたくなにされ」たのです。
パロが罪を犯すことを神は放置されたのです。
つまり、「神はパロが罪を犯すことを放置し、それによって『名を全世界に告げ知らせ』ようと」されたということです。
つまり、神にはご自身の栄光のために、人を罪の中に放置する権利があると。
私たちがクリスチャンになるということは、思考方法を主客逆転させるということを意味します。
それまで自分中心で考えていた世界観を、神中心に切り替える。
この根源的な作業ができていない人はクリスチャンとは言えない。
もしくは、幼いクリスチャンということができます。