好戦的な国家には敗戦のトラウマが必要だ
このNHKの番組で、ノースダコタ州に住む主婦が登場する。
彼女は、敬虔なクリスチャンであり、ホームスクーリングを行って子供を育てている。
しかし、彼女は、ブッシュ大統領の支持者である。フセイン政権を打倒したことを評価しているという。
「民主主義と自由を世界に広めることは重要なことだ。アメリカは抑圧的な体制に対して目をつぶってはならない。かつて、もしアメリカがヒトラーに対して早めに対処していれば、あのような悲劇は起こらなかっただろう」と。
教会の教育が悪いと、こういうクリスチャンが現われる。
彼女はいたってまじめだ。しかし、まじめだが知恵がないと、本当に間違ったことを自信をもって堂々とやるから怖い。
「独裁者がいれば倒すのがよい」という単純な発想で政治に関わってはならない。
では、今後も、アメリカは独裁的な中国を倒し、北朝鮮を倒し、その他の世界中の独裁的な政権を倒すために、先制攻撃をしかける権利があるのか?
それが、神の御心なのか?
あなたが信じるイエス・キリストは、独裁的なローマ皇帝を倒すために武器を取りましたか?
弟子たちを集め、ユダヤ人たちを組織化して、ローマ帝国に対抗する強大な軍隊を作って、抵抗運動をはじめましたか?
むしろ、逆でしょう?
人々はそのようなメシア像を描いていた。イエスには解放者としての期待がかけられた。だから、イエスがおとなしく捕らえられて十字架についたときに、大きな失望が起こった。
人々は、「もしおまえが救い主ならば、十字架から降りて来い」と叫んだ。
当時のユダヤ人は、「力で世界を変えられる」と信じていたのだ。
ローマに支配されたのは、「力が弱かったから」と。
「違う。」とイエスは言われた。
「あなたがたに力がないからではない。あなたがたが悔い改めず、契約を破ったからだ」と。
イエスは、破滅の直前のエルサレムを前にして、こう言われた。
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。」(マタイ23・37-38)
ここで、「荒廃の原因は、悔い改めて立ち返ることを拒んだこと」にあるとはっきりと言われているではないか!
問題は、「力」ではなく、「倫理」なのだ。
当時のユダヤ人と同じ間違いを今のクリスチャンは犯している。
このような誤謬は、傲慢から来る。
「俺には力がある。この力を発揮すれば、世界なんて簡単に変わる。」と考えるのは傲慢であり、罪だ。
「神はこの力を我々に与えてくださった。だから、世界に平和をもたらすためにこの力を行使することはよいことだ。」
あなた何様なの?
たとえ、世界を変えることのできるような強大な軍隊を持っていたとしても、こんな考え方をしているようでは、アメリカは致命的な失敗をする。
自分に力があるならば、まともなクリスチャンならば、「これは神が与えてくださった恵みだ。」と考えるはず。
そして、「私の知恵によってあなたの欠点を正してあげよう」なんていう「おせっかい」はしない。
まず「自分の目の中に梁があるではないか!それを取ってからにしなさい。」と言われてしまう。
もうアメリカのクリスチャンは、精神年齢が低すぎる。大人が考えるようなことではない。大人になればこの世の中は力だけではどうにもならない、ということを悟るものである。だから、30歳くらいになれば、考え方にバランスがとれてくるのが普通だ。
こういう精神的なバランスを欠いた人間が大量に教会の中にいるということは、教会が異質な教えを排除できず、人々の低いレベルに合わせて牧会をやったからと思う。
「引き上げなければならない」はずの牧師が、人気を取るために「低きに下った」からこんな人間を大量発生させている。
もしくは、牧師自身が霊的・精神的に未熟で、聖書の真理を読み取れないからでもあるだろう。
マッカーサーが日本人は12歳と言ったそうだが、どうやら日米逆転してしまったようだ。
人間には失敗のトラウマが必要なように、好戦的な国家には敗戦のトラウマが必要だとつくづく思う。
2004年7月27日
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