存在論的に多、契約的に一 2
<Perter様>
またまた質問で申し訳ありませんが、よろしくお願い致します。
父、子、聖霊の三者において、普通は受肉した方は、子であるとされていると思いますが、ローカルチャーチでは、三一の神が受肉したと言っているようです。(以下引用参照)
はたして受肉された方はどなたなのでありましょうか?
在主
206 :安得烈 ◆btXULJ2X8M :2006/03/28(火) 20:32:05 ID:dtNQzTIH
>>189
>ローカルチャーチの方はココを無理に「神はお一人」だけを
>ワンネス的に読み、理解されますが、
していません。ローカルチャーチのように「父神は神性(God)と人性(man)の両者である」でないです
そのあとに書いておられることは聖書の記述と矛盾します。
使徒行伝20:28に「神がご自身の血を通して」と書いてあります。
チャールズ・ウェスレーは、この節をもとに「私のために神が死なれた」と歌っています。
http://www.hymnal.net/cgi-bin/hymns/index?t=h&n=296
御子が受肉したとき、御子だけでなく神格、すなわち三一の神が人の性質を得られたのです。
これは、ワンネスを教えているのでは全くありません。
父・子・霊の三パースンは、一つの神格を持ち、三つのパースンは相互内在するのであって、御子の受肉は実は神格の受肉であったことを言っているのです。
<tomi>
「父・子・霊の三パースンは、一つの神格を持ち、三つのパースンは相互内在するのであって、御子の受肉は実は神格の受肉であったことを言っているのです。」
受肉したのが、御子だけではなく、御父も御霊もであるならば、イエスが次のように述べたのをどう解釈するのでしょうか。
それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。(マタイ26・39)
ゲッセマネの園で「ひれ伏して祈って言われた」受肉した御子が、御父に向かって「わが父よ。」と語りかけておられる。
彼らの説によると、この語りかけた相手も受肉しているわけですから、その語りかけた相手はどこか近くにいなければなりません。
遠くにいては聞こえませんから。
さて、どこにその肉体を持つ「父」はいたのでしょうか。
それとも、父は子と「相互内在」するので、自分自身に語りかけたのでしょうか?
めちゃくちゃですね。
もうまともに相手にできる説ではない。
「三つのパースンは相互内在」すると主張することによって、聖書の中にある父と子の対話に関する個所はまったくもって不合理の塊になります。
こんなまったく筋のとおらない説は異端でなくてなんでしょうか!
3つのペルソナは、存在論的には、それぞれ互いに独立しているのです。つまり、別個の存在です。
しかし、契約的に一つになっている。
「使徒行伝20:28に「神がご自身の血を通して」」
これは、契約的に三位は一つなので、御子が「ご自身の血を通して」行われたことは、父も聖霊もそれを行われたと見なされるからです。
だから、イエスが行われたことは「神」が行われたことに等しい。
契約的行動と、存在論的行動とを混同すると、神概念はめちゃくちゃになります。