非6日創造説は誤謬である


聖書信仰に立つクリスチャンは、例外なく6日創造説を採用しなければならない。

それ以外は、聖書の曲解であり、誤謬である。

(1)創世記1章:


神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。(5節)
神は、その大空を天と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第二日。(8)
こうして夕があり、朝があった。第三日。(13)
こうして夕があり、朝があった。第四日。(19)
こうして、夕があり、朝があった。第五日。(23)
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。(31)

ここで、

「夕があり、朝があった。第○日。」というパターンが繰り返されている。

この「日」が何億年という期間であるというならば、「夕」と「朝」とは何にあたるのか?

6日創造説に反対する人々は、この質問に答えなければならない。

たとえば、ジュラ紀とか白亜紀といった時代の境目に生じた氷河期を「夕」とし、温暖期を「朝」とするのだろうか。

そんな定義を聖書のどこから導きだすことができるのだろうか。

聖書には、そのような氷河期とか温暖期などの記述がまったくない。

記述がない場合に、朝と夕の定義はできない。聖書は聖書によって解釈しなければならないからだ。

また、夕があり、朝があるということは、夜があり昼があるということと同意である。

夜があり、昼があるということは、光と必然的に関係していることが分かる。

「日」を○億年と考えた場合に、その「夕」と「朝」にあたるものは光と関係していなければならないが、それはいったい何か。

光があふれる昼のような時期が何十億年と続き、それに続いて光がまったくない時期が同じ期間地球上に続いたのか。

そんなことはありえない。

結局、この「夕があり、朝があった。第○日。」というパターンは、文字通りの「日」ということを意味していると考える以外にない。

(2)出エジプト記20章:

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。(8節)
六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。(9)
しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――(10)
それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。(11)

8節における「日」とは24時間で一日の一日である。

9節における「日」とは24時間で一日の一日である。

10節における「日」とは24時間で一日の一日である。

それゆえ、

11節における「日」とは24時間で一日の一日である。

8-10節の「日」の意味と11節の「日」の意味が異なると考えることは絶対にできない。

同一文脈の同一箇所において同じ言葉が使われているのであるから、同じ意味に解釈すべきだ。

神は、我々が週の一日を休むべき根拠を、創造における神の行動においておられる。

つまり、「わたしがこうしたのだから、おまえたちもこうしなさい」と模範を示しておられる。

非6日創造説は、模範となる神の行動が、我々のそれと異なっていると唱えるのであるから、誤謬である。

「神の時間的スケールと我々のそれは違う」という人がいる。

「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」(2ペテロ3・8)という箇所を引いて、この「日」を「長い期間」と解釈することはできない。

なぜならばもし神が我々と同じタイムスパンで創造活動をしたのでなければ、「同じように」とはいえなくなるからだ。

片や「○十億年」や「○百億年」の単位で、片や1週間であれば、模範にはなりえない。

どう見ても、創世記や出エジプト記の上記の箇所の「日」は、進化論のタイムスパンとは調和しない。

「でも、科学では・・・」というだろうか。

聖書を神の啓示と捉えるならば、科学などどうでもよいのである。

聖書が何を言っているかに集中し、科学の学説に影響されてはならない。

 

 

2009年1月6日

 

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