10年前の「示し」2


この「示し」をはじめて読んだのは、ほんの1ヶ月前のことである。

それまで、K氏とKM姉が真名井神社に行ったということは聞いていましたが、その内容のメモ書きを目にすることはなかった。

今、この内容を見て興味深いことは、その後、我々が体験したり、学んだことがすでに記されていたということである。

私が天照大神がキリストの復活の記事から生まれた神話ではないか、と気づいたのは、今から4年くらい前のことである。その6年も前にすでにこのことがKM姉の口から出ていたとは。

KM姉は、当時信じたてのクリスチャンで、これらの内容を自分から語ることはとてもではないができなかったはずだ。

彼女は、たしかに預言の賜物がある。(*)

私しか知らない情報を、克明に当てたことがある。他の人々に関しても、その当人しか知らない情報を言い当てた。

彼女は、当時、SJという預言を重んじる教会の会員であった。

1996年という年は、私も非常に不思議な体験をした年であり、長崎に原爆資料館を訪問するため観光バスに乗った際に、「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」という御言葉が心に浮かんだ。その直後、「十二聖人の碑」を訪れると、同じ聖句がレリーフの中央に刻んであって、まさしく自分は主の働きに召されたと確信した。

私が3人の牧師先生に按手を受けたのはこの年の1月だった。

友人のK氏も同じように、不思議な体験をした。預言の賜物のある人々と数多く出会い、異次元の体験をした。

預言については注に書いたように、すべてを鵜呑みにしてはならないということである。

サタンから来ているものもあるからだ。サタンは神の預言に見せかけて、偽りを混入するので注意が必要だ。

だから、私は、彼女の預言をそのまま神からのものだと断言しない。我々は、疑ってかかるべきであり、敵の策略に乗ってはならない。

真理かそうではないかの基準は聖書だけであり、聖書にしたがって、分別する能力を養う必要があるだろう。


(*)
私は現代において預言がないという立場に立たない。なぜならば、聖書において「現代において預言はない」「預言は1世紀のクリスチャンで終わった」と証明する個所は皆無だからである。


私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。(ローマ12・6)

ただし、聖書は、「使徒は、イエス・キリストによって直々に任命された証人であるがゆえに、我々普通のクリスチャンは、彼らの証言を神のお墨付きの証言として受け取らねばならない。」とも述べている。

つまり、新約聖書(もちろん、旧約聖書も)というふるいをかけずに、普通のクリスチャンである我々が受けた(つもりになっている)預言を鵜呑みにしてはならない、ということである。

聖書は、次の2つの極端を否定している。

1.現代において預言はない。
2.聖書啓示を超える預言が存在する。

このいずれかを主張している人は、超自然拒否か超自然無限受容のいずれかの極端に走った人である。

 

 

2006年9月8日

 

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