予定論は汎神論ではない


<Q>
それでは今回も質問があります。

神は全知全能です。それなのにどうして人間をつくったのでしょうか?

宇宙を作ったのでしょうか?

全知全能なのになぜそんな無意味のようなことするのでしょうか?

全部知っているし、全部できるのに。

単なる神の趣味なのでしょうか?

宇宙も人間も神の自由意志によって創られたのですか?

もしそうなら自由意志ということは神は使命感や必要感で作ったわけではなく

自分が創りたかったから創ったのですか?

そういう人間的にみると非常に個人的な感情のようなことで創ったのですか?

※非常に冒涜的なことですが、いつも気になっていたことなので質問してしまいました。

<A>
神が被造物を創造されたのは、完全な自由意志によります。

それは、ご自身の栄光を現すためです。

被造物を喜ぶためです。

人間からすると、「個人的」「趣味」に見えますが、神のなさることはすべて公的です。

なぜならば、基準は神ご自身だからです。

「神のなさることは正しいか?」という疑問は無効です。なぜならば、「神が正しさの基準」だからです。

創造の前に世界は無でした。神以外に何も存在しなかった。自然すらも。

ですから、神が万物に対して基準なのです。

基準が神とは別に存在して、神を裁くというものではない。

西洋の哲学者は、この点を誤解しています。

それは彼らは大なり小なりギリシア自然思想の影響を受けているからです。ギリシア自然思想において、究極は自然です。神の創造の前に自然がすでにあったとする。そして、神の創造世界は、この自然の中で行われたとする。ローマ・カトリックもこの考えを受け継いでいます。

だから、究極の基準は神ご自身ではなく、自然になります。

神もこの自然の基準によって評価することになる。

これに対して、聖書の神とは、自然すらも創造されたとします。創造の前には何もなかった。

時間と空間という被造物の存在形式すらも創造された。

だから、神以外に基準はない。「神は正しいか?」「神は存在するか?」「神は美しいか?」という質問はナンセンス。「神は正しさの基準である」「神は存在の基準である」「神は美の基準である」からです。

何かの正しさを評価する場合に、我々は、神を基準に評価しなければならない。つまり、「それは神からどれだけ離れているか?」と。

神の正しさから遠く離れていれば、「悪」であり、近ければ「善」です。

しかし、ギリシア思想を背景として持つ西洋の哲学者たちは、神をも裁こうとする。彼らがよく言うのは、「被造物の序列」です。神を、無生物―生物―植物―動物―人間―天使―神という序列に置く。

違う。

神は、このような序列を超越しているのです。

西洋哲学は、神をオーディションで歌ったり踊ったりする参加者とみなす。評価するのは人間。神にはいつも「満点」がつく。哲学者は、こうすることによって神を尊敬しているように思っているかもしれないが、冒涜にほかならない。

神を超越的審判者の位置に置かない思想はすべて冒涜です。

ギリシア思想―西洋思想、つまり、ヘレニズムの系統は、ことごとく人間を審判者とし、神を被評価者の位置に置く。

「神の創造は、無意味な趣味のようなものではないか」という疑問は、すでにそこに評価が入っているのです。

神の創造こそが意味の基準なのです。神の創造こそが「価値ある行われるべきもの」の基準なのです。

我々はこの基準に基づいて自分がなした業がどのような意味や価値があるかを評価しなければならない。

「神の世界創造にいかなる意味があるのか」という疑問は、1メートルの原器に向かって「これは1メートルか?」と問うようなものです。「この原器を1メートルとする」として、その他のすべての長さが決定されるのですから、原器を測ろうとすることは無意味です。

神は評価の対象にはいっさいなりません。

評価しようとした瞬間に無意味の無限連鎖にはまります。


<Q>
あと、私たちが生きていることやすることは全て予定されていると書いていました。

ということは、汎神論なのですか?

何というか、自分が何を考えて何をしようがそれは予め決まっていて
それは神がそのように仕組んだことなんですよね?

それなら異端視されたスピノザの哲学はすごく正しいのではないでしょうか?

「万物は神の表れ」なんですよね?

うーーん。何と表現したらいいか・・・

あ! 

つまり、私たちは小説の中の人物ではないでしょうか?

神が筆者であり

自分たちが小説の中で考えたり会話していることは

自分たちが気づかないだけで、実は筆者である神の意思だと。

違うでしょうか?

<A>
ある意味で正しいです。

私たちが、何かを決意する場合に、それは神の計画の中で起こっている。

私たちは、御心ではない場合には、100m先のコンビニにすら行けません。

悪ですら、神の許可がいります。秋葉原で殺害したあの犯人が犯行を決意し、それを実行に移した際に、神がその許可をおろされたから可能になった。

ただし、「犯罪の許可をおろした」=「その犯罪を喜んだ」ということではありません。

神はご自身の法に対するすべての違反に対して憤られる。

しかし、ある目的のために、犯罪が起こることを神は許容される。

罪を許容することと、積極的に罪をけしかけることを混同できません。

罪をけしかけることはサタンの業です。

「罪を許容することは、すなわち、その罪をけしかけたことになる」と考えると汎神論になります。

汎神論が間違いなのは、サタンも神の一部になるからです。

そうなれば、神はサタンを裁くことができません。

区別しなければならない。

罪を許容することと、罪を犯すことは同値ではありません。

たとえば、国は車を運転する自由を免許を持っているすべての人に認めています。

免許を持つ人々は、いつでもどこにでも車で行くことができます。

しかし、中には暴走行為をする違反者もいます。

汎神論の理論は、国とこのような違反者を区別せず、「暴走行為が起こる可能性を許している国は、暴走行為の主と同罪だ」と言う人に似ています。

じゃあ、車の運転を全面的に禁止すべきなのか。

汎神論を信じると、善と悪の区別がめちゃくちゃになります。

聖書の「万物は神の表れ」は汎神論の「万物は神の表れ」ではありません。

その違いは、「罪の許容を罪そのものと同一と考えるか」という点にあります。

 

 

2009年7月21日

 

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