律法はいのちを与えないか?10


<LUKEさん>
上の論点と関わりますが、旧約の民はいのちを得る意味で聖霊を受けてはいなかった(イエスがいのちを与える霊として来ていなかった)。現にヘブル書にあるとおり、「始めの契約には欠けがあった」と、またローマ書に「律法は肉の無力で、律法をなし得ない」とあるわけです。

Q.彼らは律法を全うしていたわけですか?
A.私は「NO」です。

Q.旧約の民が聖霊を内的いのちの満たしとして受けていた根拠はどこでしょう?
A.私は「ない」

<tomi>

「ローマ書に『律法は肉の無力で、律法をなし得ない』とあるわけです。」

ここにおける律法とは、当時パウロの時代にユダヤ人の間に流行していた律法主義者の「律法」なのです。彼らは、律法を守ることによって永遠のいのちを得ようとしていた。

しかし、人間はどんなに肉の力でがんばっても律法をなし得ない。だから、律法を守ることによって救われようとするのを止めなさい、とパウロは述べた。

新約聖書における律法論議は、この文脈において行われているので、旧約聖書の民にとっての「律法」とは性質が異なります。

旧約聖書の民にとっての律法とは、「恵みの契約」の中において与えられた「生活指針としての掟」なのです。

すでに値なしの犠牲(過越)によって奴隷の国エジプトから救われて「神の民」となった人々に対して与えられた「恵みの法」だった。

だから、それによって救いを得るとか、わざの契約のような絶対基準ではなかった。

もし、永遠のいのちを勝ち取るための律法であったならば、神は、「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。」(申命記30・11)とは言われなかったでしょう。

永遠のいのちを自力で達成するために与えられたならば、「おまえたちはこれを絶対に守れない。これはむずかしすぎて、遠くかけ離れている。」と言われたでしょう。

パウロはこのような本来の意味として律法までも否定したわけではなかったのです。パウロが否定したのは、あくまでも律法主義者の間違った律法観です。

 

 

2005年10月13日

 

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