聖書主義が原爆を落とした?


日本人でノンクリスチャンの場合、キリスト教について知識がほとんどない場合が多いので、誤解は避けられない。

キリスト教に詳しくなければ、現在のファンダメンタリズム、福音派、宗教右派などの状況がわからず、トンチンカンな解釈になってしまう。

キリスト教について書いたある著者は、広島・長崎の原爆など近代のアメリカによる大量虐殺は、バプテスト派の教義に由来するという。


 「人間はというと、これはサタンの虜となっている。これに自由意志のもとに福音を与えて受け入れたものは救い出します。受け入れないものはそのままサタンの側についている者ですから、大ざっぱにまとめていっしょに滅ぼしてしまいます。これがイエスの全体的作業の構図になっています。」 (『聖書の論理が世界を動かす』 159ページ)

 聖書解釈には多くの教義解釈があり、全く異なる誤解のネットワークが生まれ、数多くの教派が存在する。しかしバプティスト派は、いま述べたように、「福音を受け入れないで死んでいく人が少なからず出てもしかたないのだ」という聖書の論理で物を考えると、鹿嶋氏は説明する。
 私はこの論理から、広島、長崎の原爆投下と、ベトナム戦争、湾岸戦争、コソボ紛争におけるアメリカを主力としたNATO軍の空爆、そしてアメリカ同時多発テロ後の、アフガニスタンでのアメリカ軍の空爆を想起した。これらの戦争では、アメリカ軍によっておびただしい死者が出た。
http://www.d5.dion.ne.jp/~y9260/yuniratera1.html

私は、バプテスト派で洗礼を受け、幼少期その教会で育った者であるからバプテストについて知っている。

バプテストの聖書主義が、大量虐殺を是とするというのはあまりにも極端な解釈である。

なぜならば、聖書主義であれば、十戒を信じるからだ。十戒では、殺人が重罪とされている。

殺してはならない。(申命記20・13)

偽りの告訴から遠ざからなければならない。罪のない者、正しい者を殺してはならない。わたしは悪者を正しいと宣告することはしないからである。(申命記23・7)

殺してはならない。(申命記5・17)

聖書主義から、罪の無い人々の虐殺を肯定することは到底できない。

ただし、今のバプテストやファンダメンタリズム全般はディスペンセーショナリズムという異端の教義に支配されている。

ディスペンセーショナリズムは、律法を過去のものとして拒絶し、現在のクリスチャンは律法に縛られないとする教えだ。

だから、今のバプテストやファンダメンタリズムが、戦争において大量虐殺を肯定することについて断固として反対する態度を取らない可能性はあると言える。

「可能性はある」というのは、今彼らがそうだということではない。

ディスペンセーショナリズムの教義を徹底するならば、そういうことも言いかねないということだ。

私が少年期に接したバプテストの人々は人殺しを平気で主張するような人々ではなかった。皆善人である。

しかし、ディスペンセーショナリズムは、原理的に言えば、聖書の教えのほとんど大部分を拒絶する可能性を含んでいる教えであるから、完全な無律法に陥る危険性をはらんでいる。

実際、今、ディスペンセーショナリズムの毒はほとんどすべての教会を襲っている。

教会のクリスチャンから規律が消えつつある。かつての教会を知っている人々なら信じられないようなことが起きている。

キリスト教について詳しくない人々は、注意していただきたい。

聖書主義が原爆の原因だなどと考えないで欲しい。

聖書主義が問題なのではなく、聖書主義という触れ込みで教会に侵入したディスペンセーショナリズムが問題なのだ。

それは、実質的に非聖書主義である。

そして、ディスペンセーショナリズムには、異端的な終末論が含まれており、ディスペンセーショナリズムを信じるアメリカの宗教右派の指導者たちは、武力的な聖地回復を主張し、現在のイスラエルの政策を支持し、イスラエルによるアメリカのロビー活動、そして、アメリカを利用した中東の支配、イラク戦争、イスラム教的政府の転覆などを肯定する。

http://www.path.ne.jp/~millnm/anticoalition.htm

敵は、教会の中に、異端を持ち込み、騙された(もしくは回し者の)指導者たちに悪さをさせ、あたかも聖書主義が悪の根源であるように見せかけているのだ。

その点、騙されてはならない。

正統的信仰のキリスト教までも攻撃し、かえって敵を利することになる。

 

 

2008年10月18日

 

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