牧師のあら捜しをするサイト5
預言者を過去のものだと考える人々がいる。
しかし、預言者は、今でもいる。それは、我々の周りにいて、我々が霊的・物理的に危険な状況に陥ったときに、神の御心を告げるためにやってくる。
何十年も前に、私の友人のKZ氏から電話があった。彼は私の特定の罪をやめるように指摘した。
まったく彼には何も知られていないはずだった。一度もそれについていったことはない。しかし、彼は「それはまずいから止めないとだめだよ」と言った。
我々がよく体験するのは、礼拝において牧師の説教がまったく自分に向けて言われたとしか考えられない場合だ。
神は、礼拝の説教を預言として用いられる。私も説教をして終わると、「今日のメッセージは私のためにあるようなものでした」といわれることがよくあった。
このような預言を無視するとろくなことがない。
神からの示しだから、神を拒むことになる。
それは裁きに直結している。
インターネット上で人の個人情報をとかを平気で流す人間を信用してはならない。
彼らはそれを正義だと思ってやっているが、それは、正義でもなんでもない。
神は神の国を代理制度で作られた。つまり、権威のチェーンで作っておられる。
ある団体において神はある権威を据えられる。
国家において警察は権威である。権威に逆らうことは神に逆らうことにつながる(冤罪とか警察の不祥事があるのですべてというわけではない。原則としてということ)。
それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。(ローマ13・4)
そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイ26・52)
・・・豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(マタイ7・6)
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6・7)
2009年8月18日
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