評論家や預言者を追い出す体制はろくなものではない2


潔癖症の人々がいる。汚れや臭いが異常に気になるそうだ。

清潔は美徳である。しかし、潔癖症は異常である。

どこが違うのだろうか。

違いは、清潔が神の作られた秩序を認めるのに対して、潔癖症はそれを拒否するという点にある。

神は、世界を汚いものとして創造された。

歯を磨かないと汚れて虫歯になる。

体を洗わないと、臭くなり様々な病気になる。

きれいなものと、汚いものとの拮抗で成り立つ世界として創造された。

環境をすべて清潔にすると、かえって人間は異常になる。

ある幼稚園で、砂場の砂を完全消毒したそうだ。

猫がきておしっこをするからと。

こういうふうに過剰に清潔な環境で子供を育てると、子供は免疫力を失っておかしくなる。

私の子供のころは、北海道は馬車が走っていた。馬糞がそこかしこに落ちていた。春先になると、馬糞が乾燥して風に舞う。いわゆる馬糞風というものがあった。

民家のトイレも汲み取りであり、家には常に異臭がただよっていた。

しかし、精神的には今の環境よりも健全であった。活力もあったし、人々は前向きであった。

不潔がよいとか、水洗トイレが間違っていると主張していると考えないでいただきたい。

清潔になることはよいことだ。

しかし、この世界から完全にばい菌や汚いものを除くということは、神の作られた自然環境と矛盾するということだ。

我々は、抵抗するものがいてはじめて正常になるように作られている。

批判する人々、犯罪者、ばい菌、ストレス、・・・こういったものと戦いながら生きていくことが正常なのだ。

二つの矛盾するものの相克の中で我々は自分を鍛えて向上できる。

共産主義体制のように、異物、反対者の徹底排除を目指すと、自分を裁くものがいなくなって、独善化し、ついには異常になる。

北朝鮮のように、自己満足の世界になる。

正しい体制とは、反対や反対の意見を封殺しない体制である。

しかし、何でも許すと今度は逆に無秩序になり、体制が維持できなくなる。

だから、バランスなのだ。

清潔はよいが、徹底清潔はよくない。

神は、御国において、預言者を置かれた。

預言者は、指導者が間違いを犯したときに、神から使わされて戒める働きをした。預言者を殺すことによって、イスラエルは自分を滅びにいたらしめた。

評論家を許さない業界は、死につつある。

預言者や評論家のいない世界とは、ばい菌のいない世界、潔癖症の世界、自分を神とする世界である。

被造世界において完璧なものは一人もいない。だから、間違う可能性が常にあり、それゆえ、それを諌めてくれる人が必要だ。

預言者や評論家を締め出してはならない。

 

 

2009年5月6日

 

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