聖書の国家観
シートベルト・ヘルメット着用義務化は、日本が共産主義国家であることの象徴である。
聖書によれば、支配の剣は「アダム個人」に与えられた。
そしてその支配の助け手としてエバが与えられた。
つまり、神は、支配の基礎を「結婚」と「家庭」に置いていることが分かる。
国とは、この個人と家庭の集合である。個人が自分をまず治め、家庭を治め、そして、神信仰を基軸に作られたこのような家庭が集まってできるのが地域社会であり、その地域社会が集まって国が成立する。
これが聖書が教える支配の構造である。
自分と家庭が神に対して服従するということが基本となって、その支配を促進するために国がある。
だから、当然のことながら、国とは、個人や家庭の信仰に対してとやかく言うことはできない。それゆえ、国が独自の理念を遂行するために個人や家庭を利用するというのは、本末転倒なのである。
近代における国家観とは、「まず国家ありき」である。国家の欲望を満たすために国民が徴兵され、10%以上の税金を取られている。
ヒトラーは、国民に健康であることを要求した。なぜか。
国民は国家の道具だからだ。
シートベルト、ヘルメットの着用は、個人が神に対して負っている責任に属するものであって、国家に対して負うべき責任ではない。
シートベルトやヘルメットをしなくて死んでも、それは自分の体に対する責任違反であり、また自分に肉体を与えてくださった神に対する責任違反である。
近代の「擬似神」である国家は、この責任の取り方を自分に振り向けた。
人間の生活のすべてを自分と結びつけ、自分に対する関係の中でとらえ直すようになった。
だから、犯罪は、すべて国との関係で刑罰が下され、その結果、被害者はやられ損ということになっている。
犯罪被害の民事訴訟において、刑事訴訟で集められたデータを使用することはできないという。
結局、犯罪において、被害者は国に限定されてしまっている。肝心の被害者について国は関心を持たない。
このように、何でも自分に対するものと考える国の姿勢とは、「わたしこそ地上を歩む神である」という主張である。
カントにおいて人間中心の哲学が完成し、人々が聖書を捨ててから、神の座に国が座るようになった。
そして、国民を自分の理念の実現のために利用するようになった。
国家中心の福祉とは、聖書の神が与える恵みの代替物である。
国は、自分に対する国民の忠誠をつなぎとめるために、恩寵を与える。
聖書の神が十分の一を要求するのに対して、国は40パーセントを要求する。
40パーセントでも足りなくて、ついにすべての商品に税金を掛けて、我々のすべての活動に対して主権をふるうようになった。
騙されてはならない。
近代の国家とは、神を真似た偶像であり、妖怪である。
昔のモロク神が子供を火の中をくぐらせたのと同じように、現在のモロク神は、子供を徴兵し、国の世界戦略のいけにえに捧げさせる。
現人神ローマ皇帝が国民に対して健康を命令したのと同じように、現代の国家も国民に健康を強制する。
クリスチャンは正しい国家観を学んで、ヒューマニズムの国家中心主義の悪魔性について認識を深める必要があるだろう。
2005年9月5日
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