聖書は、木に様々な特別な意味を与えている。その一つは、「命の象徴」である。
木は、光合成により、他から食物を与えられることなく、自律的である。もちろん栄養を様々な形で吸い取っているのであるが、しかし、動物や人間のように、捕食することがない。
アブラハムはマムレの樫の木のそばで主を見た。
主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。(創世記18・1)
本当のイスラエル人とイエスに賞賛されたナタナエルは、いちじくの木の下にいた。
ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」 (ヨハネ1・48)
アブラハムは礼拝において木を植えた。
アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った。(創世記21・33)
信仰の人が木と関連づけられているのは、彼らが「命を受けている人」であることを示すためである。
イスラエルは「いちじくの木」に例えられ、かつては豊かな実を結んだが、イエスの時代には、実を結ばず、役立たずになっていた。
道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。(マタイ21・19)
忠実な人は、「水路のそばに植わった木」である。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。(詩篇1・3)
水路のそばに植わっている木は、水分を十分に吸収し、豊かな実を結ぶ。それと同じように、神のそばにいて、霊的な栄養をもらっている人は、豊かな霊的実を結ぶ。
ユダヤ教のシナゴーグに、カトリックのステンドグラスのようなものがある場合がある。カトリックならば、そこにイエス・キリストの像や十字架が描かれているところ、ユダヤ教では、そこに「木」が描かれている。
生命の樹は、ユダヤ思想の中心にある。
我々は、イエス・キリストによって、エデンの園にあった「永遠の生命の樹」から取って食べることができる。
生命の樹は、イエス・キリストの象徴である。
クリスマス・ツリーは、昔、果物を吊るしたそうだ。生命の樹(=イエス・キリスト)を象徴しているからである。
イエス・キリストが人間の罪の身代わりに死ぬときの方法として「木にかけられる」ことが選ばれたのは、生命の樹と関係がある。
エデンの園にあったもともとの生命の樹は、イエス・キリストの犠牲を必要としなかった。
しかし、人間が堕落して、贖いの必要性が生じてから、生命の樹から取って食べるには、イエス・キリストの犠牲が必要になった。
十字架は、生命の樹である。
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興味深いことに、ユダヤ思想の伝統的な生命の樹の図には、セフィロトと呼ばれる10個の球体がついている。
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これには、モーセの十戒の第1戒から第10戒までが割り振られている。
契約の民に命が与えられると、十戒を守るという「果実」が結ばれるということを意味しているのではないか。
さらに興味深いことに、この球体を結ぶと、日本人が使う熨斗袋についている護符とまったく同じ形になる。
http://www.millnm.net/qanda3/tol.jpg
この護符は、伊勢の人々は、その上に「蘇民将来」と書いてお守りとして飾るそうだ。
http://www.millnm.net/qanda3/gofu.jpg
蘇民将来の話は、モーセの出エジプトと酷似している。
http://plaza.rakuten.co.jp/kotoha/diary/200506260000/
蘇民将来とは、「この国の民はもう一度蘇る」という意味を含んでいる名前と思われるので非常に興味深い。