クリスチャンは、ぜいたく品を購入してはならない、というクリスチャンの友人がいて、ずっと以前からそういう考え方は間違いだと言ってきたが聞いてもらえない。
仮に「ぜいたく品」そのものが悪であるならば、そのような考え方も肯定できるが、「ぜいたく品」そのものは悪ではない。
なぜならば、聖書では、神の祝福をぜいたく品で表現しているからである。
「・・・そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。」(創世記2・10-12)
「その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。」(創世記21・18-21)
義人ヨブは、誰よりも裕福であった。試練を経た後も、富を回復してもらった。
「富を得ることそのものは悪であり、クリスチャンらしくない」という考え方は聖書から遠い。
ある教団の戒律に「清貧を尊ぶこと」と書いてあった。
たしかに聖書の中には「富める若者」の記事があって、あたかも富むことが不信仰であるかのように書かれているが、しかし、この記事は富むことそのものを非難している個所ではない。
「主に献身をする人は、すべてを捨てる覚悟がなければならない」と言っているだけである。
もし富むことそのものが悪であるならば、次の契約の約束は偽りだということになる。
「あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。主は、あなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざを祝福してくださることを定めておられる。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。」(申命記28・3-8)
聖書を読む人は、「全体的に読む」べきだ。
聖書の研究において大切なのは、「全体を知り、細部を知る」という読み方である。
一箇所から教理を作ることはできない。
一箇所の教えは必ず全体と調和させた後に吸収しなければならない。
聖書全体において、富は良いものとして考えられている。
神がクリスチャンにお与えになろうとしているのは、「豊かな相続財産」である。
貧困を美徳と考えるようになったのは、ギリシア禁欲主義が入ったからである。