多神教は誇りのよりどころになれない
日本の知識人が、なぜ愚にもつかない多神教に望みを託すかというと、自国のアイデンティティをそこにしか見出すことができないからだ。
丸山昌男が『日本の思想』(岩波)の中で述べているように、本居宣長自身、神道の起源はなぞだと考えていた。そこで、日本人は自分の起源、アイデンティティについて深く考えても無駄だとあきらめるようになり、そこから、「深く考えるな」「俺の目を見ろ、なんにも言うな」「男は黙ってサッポロビール」という伝統が生まれた、と。
これは悲劇である。起源が不明確な思想から、科学的文明は生まれないからだ。
ヨーロッパでは、キリスト教の文化的背景があるため、起源に明確な答えがあった。
この宇宙は一人の神によって無から創造された。だから、宇宙には同一の原理と法則があり、その法則は一定して働いている、と考えることができた。
一人の神、一つの宇宙、一つの法則、こういった背景がなければ、科学は成立しない。
古代中国で物体の落下に関して働いていた法則と、現代のアメリカで同一のものに働いている法則が同じかどうか分からないような世界観では、科学は成立できない。
多神教は、今いる神々を前提とする。学問の領域には学問の神がいて、台所には台所の神がいる…。
その起源についてたずねることは野暮だ。人々は、「なぜそうなのかは、聞くな。」と拒絶する。
それぞれの領域にそれぞれの神がいて、そこに統一の原理がないのだから、統一の法則を期待するなんて不可能である。
東洋が西洋に出遅れ、世界がヨーロッパ文明によって支配された主要な理由は、「理屈を捨てた」というところにあった。
キリスト教文明は、聖書の解釈学の影響を強く受けている。その一次一句にこだわる姿勢は、理屈を軽視しないという伝統を生んだ。
ヨーロッパにおいて、「なあなあ」で終わらせる必要はなかったのである。
聖書には、答えがあるからである。聖書は、理屈を好む人々に深遠な世界を見せてくれる。つきつめて考える人に絶望を与えない。人類が2千年かかっても探り尽くすことができないほど神の言葉には深みがある。
どうか日本の知識人にお願いする。
自分の文化を誇りたい気持ちはわかる。しかし、多神教に帰るのは、どうだろう。あまりにも情けないと思わないか?
日本の固有の文化はそんなチンケなものじゃない。
日本の源には、世界史を塗りかえるほど深遠な事実があるのではないだろうか。
コロンブスがなぜ日本を目指したのか?マルコ・ポーロがなぜ日本を黄金の国と呼んだのか?
なぜ秦始皇帝から派遣された徐福は、不老不死の薬を日本に求めたのだろうか?
細切れの知識をただ漠然と並べるのではなく、それらを互いに結びつける一つの細い糸を見つけてみよう。
そうすれば、あまりにも不思議な日本という国の本質が見えてくるのではないだろうか。
日本人として自国の文化に対する誇りのよりどころを探るのはそれからでも遅くないのでは?
2005年5月24日
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