プレテリズムの聖書解釈1


<O様>
聖書をざっと見渡してみましたところ、パーシャル/フルプレテリズムの立場をとると、これまでなされてきたメッセージがひっくり返りそうなところがいくつもありました。そのほんの一部ですが、簡単に講解して頂けますでしょうか。宜しくお願い申し上げます。

1)ヨエル2:28〜32(「その日」はいつのことでしょうか?)

<tomi>

該当個所は次のとおりです。

「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。」

この預言は、使徒の働きのところで成就しました。

ペテロははっきりとこのように述べています。

「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』」(使徒2・17-21)

つまり、ヨエルの預言は紀元70年前に成就したのです。
そして、ここから分かることは、「その日」とか「終わりの日」というのが、我々が考える「終末」ではないということです。
ペテロが念頭においていた「終わりの日」とは、旧約聖書のシステムの終わり、イスラエルだけが選民となる民族的経綸の終焉を表していたのです。

2)マタイ5:18(正に分水嶺ですが・・・)

該当個所は、次のとおり。

「・・・天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」

この翻訳は文法的に正確ではありません。

「・・・天地が滅びうせない限り、全部が成就されない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。」と訳すべきです。

ここで、フル・プレテリストとパーシャル・プレテリストの解釈に差が出てきます。

フル・プレテリストは、

「紀元70年に天地は滅びうせ、全部が成就された」と考え、

パーシャル・プレテリストは、

「紀元70年に天地は滅びうせず、全部が成就されたわけではない」と考えます。

フル・プレテリストの解釈を聞いて、「え〜っ!すでに天地が滅んだ?気でも狂ったのですか?今、我々は天地の中に住んでいるではないですか!」という人がいると思います。

しかし、彼らは、聖書は聖書によって解釈しなければならないという原則を持ち出して、「聖書では、政治的権威の失墜、国の滅亡を天体の落下、山の溶解などという象徴的な表現で表している。イスラエルの滅亡は、天地の滅亡として聖書では描かれている。」と述べます。

たしかに、聖書の象徴表現は、政治的権威の失墜や国の崩壊を、天体の落下や、天が巻物のように巻かれる、天地が消えてしまう、山が溶けてしまう、などというオーバーなものです。

これは、古代人の宇宙観を知らなければ理解できません。古代人は、天を陽とし、地を陰として対応させて見、天体の様子と地上の権力とを連動するものとして理解していました。

たとえば、エジプトのピラミッドの位置を見ると、実に興味深いことに、ピラミッドは、オリオン座と周りの星座と対応するように配置されています。

三大ピラミッドはオリオン座の真中の3つの星になり、天の川の位置がナイル川と重なっています。そして、オリオン座の北に位置するヒヤデス星団の位置にもそれに対応するように、ナイル川上流にピラミッドが建立されています。

ですから、聖書においても、記者は、天体の崩壊の様子を描くことによって、実際は、それに対応する地上の権威が失墜することを表現したのでしょう。

イスラエルの神殿が異邦人によって破壊されることは、イスラエルの「時代(アイオーン)」(マタイ24・3)の終末である。そして、イスラエルにとっては、地上だけではなく、天の崩壊にも等しい重大な出来事であった。

そういった意味において、70年の出来事を「天地が滅んだ」と表現したことも理解できます。

しかし、フル・プレテリストの「天地は滅んだのだ。だから、律法は無効化した」という理屈の立て方には賛成できません。

というのも、パウロはローマ3・31において「私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」と宣言しているからです。聖書の他の個所においても、モーセ律法が旧約時代の経綸の終焉とともに廃棄されることをほのめかした個所は一つもありません。

 

 

2004年10月19日

 

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