ウェストミンスター大教理問答における創造教理



ウェストミンスター大教理問答

第15問 創造の御業とは何か?

創造の御業とは、神が、ご自身の御力の言葉によって、最初に世界とそのうちにあるすべてのものを無から、お一人で、6日間で創造されたことであり、それらはみな非常によかった。(創世記1、ヘブル11・3、箴言16・4)

(1)
6日創造説は、カルヴァン主義の中心である。

カルヴァン派系の教師で6日創造説を唱えない人は、教職としてふさわしくない。

進化論に対して許容的な人を講壇から追い出すべきだ。

(2)
「世界とそのうちにあるすべてのものを無から」創造されたということは重要である。

創造の御業以前に無だったのである。神しかいなかった。

だから、自然は基準にならない。

キリスト教がギリシア思想の影響を受けてから、自然を規範とする自然法思想が入った。

自然主義、自然法は異教の教えであって、聖書的ではない。

自然は神が創造されたので、究極の秩序ではなく、自然法も究極の法ではない。

神の法が究極である。

神ご自身が基準なのである。

「神は存在するか?」という疑問は愚かである。

存在の基準が神なのである。

「神は美しいか?」という疑問も愚かである。

神が美の基準なのだ。美とは、神に近づくことであり、醜とは神から離れることである。

世界が無から創造されたのであるから、神の言葉が究極の基準である。

(3)
神は「お一人で」世界を創造された。

誰の助けもなかった。

世界の創造は、純粋に神お一人による神のための行為であり、まったくの自由意志による。

神は誰に対しても負い目がない。

世界の究極的な存在目的は神である。神はすべてのことをご自身のために行われる。

人間がすべてを自分のために行えばエゴイストということになるが、神の場合、世界はご自身の完全な自由意志によって存在するのであるから、自分を究極の目的とすることは悪ではない。

人間は、臣下であり、主のために奉仕すべく創造された。

人間が自律的に存在するならば、裁きの対象となる。

自己完結する人間は、自分を神とする者である。

自存の存在は神だけであり、人間は神のために生きる場合にのみ正常になる。

 

 

2009年3月28日

 

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