終末預言の正しい解釈


(1)
今日、ディスペンセーショナリストの人々が犯している一番の間違いは、聖書は主にイスラエルの運命について書いてある、という事実を見逃しているということである。

例えば、2テサロニケの携挙の話。あれは、当時のテサロニケの人々に関する話であって、我々に関する話ではない。

聖書の手紙は、普通の手紙と同様に、直接の読者に向けて書かれてある。

「聖書には、直接の読者に理解できないことは記されていない」という聖書解釈の原則は、どの神学校でも教えているような基本的なものである。

だから、黙示録の666を当時の人々が類推してもわからないような西暦2007年の誰かに当てはめることはできないのだ。

だから、マタイ24章の大患難は、紀元70年の直前の話についてである。

イエスの御言葉「これらの前兆(戦争のうわさ、ききん、地震、迫害・・・)が起こらない限りこの時代は過ぎ去らない」を真剣に受け取るならば、当然これらの前兆はすでに起こったと考えねばならない。

我々は、マタイ24章の大患難時代がこれからやって来ると考えてはならない。

そして、それが運命であるとも。

「反キリストが現れて、EUの大統領として君臨し、世界を支配し、経済を支配するだろう」という流行の教えは嘘である。

「まだアブラハム契約の約束であるパレスチナの領土はまだ成就していない。だから、イスラエル軍によるパレスチナ領土の占領は許されるし、推進しなければならない」という教えも嘘である。

キリストにおいて、すべての契約は成就されたのである。

キリストにおいて、アブラハム契約の領土は完全に回復したのである。

なぜならば、キリストにおいて、全世界の領土はキリストのものになったからである。

「私は天においても地においても一切の権威が与えられた」と宣言されたからである。

また、コロサイ1・20において「天にあるものも、地にあるものも、一切が十字架において神と和解した」からである。

世界は完全に回復し、イスラエルも回復し、大宣教命令も成就したのだ。

こう言うと、ディスペンセーショナリストは、「え〜、世界には戦争があり、イスラエルもまだクリスチャンになっていないし、世界にはキリスト教を嫌う民族がたくさんあるのに回復したのですか?」と言うだろう。

彼等は契約というものが何か理解できていない。

契約とは、約束である。ある条件がそろえば、その約束は成就するのだ。その条件とは律法である。

キリストが、律法の要求を満たし、十字架にかかられ、贖罪を実現され、条件を完全に満たされた以上、すべての聖書契約は成就したのだ。

この世界は、キリストにおいて紀元70年に新天新地に変わった。

(2)
この世界は、「法的に」回復した。

しかし、それは、「実際的に」回復したわけではない。

例えば、こういうようなものだ。

あるアパートを買収したとする。買主は金を払い、売主が契約書にはんこを押した。契約的、法的に、所有権は買主に移った。アパートは買主のものになった。

しかし、何人かの住民がアパートを出て行こうとしない。

買主は、そのアパートを壊して新しいのを建てる計画を立てているが、それができない。

住民が完全に出て行くまでの間、そのアパートは「法的に」買主のものだが、「実際的に」はそうではない。

キリストが全世界の主権を取られた。そして、クリスチャンはキリストとともに世界の王となった。

しかし、世界にはまだ悪霊の活動が盛んで、なかなか実際的に支配することはできない。

だから、キリストとその御体であるクリスチャンは、世界を実際的に回復するために戦わねばならない。

大宣教命令は法的に成就し、今や全世界の国民はキリストの「法的な」弟子である。しかし、「実際的な」弟子ではない。

我々は伝道によって、彼らを本当の弟子にしなければならない。

イスラエルは法的に回復している。しかし、実際的に回復するためには、我々が彼らを導く必要がある。

(3)
フルプレテリズムの間違いは、この「法的」事実と「実際的」事実を混同しているところにある。

彼等は、まだ法的事実でしかないものを、実際的事実と誤解している。

だから、イスラエルはすでに回復しているから、今後イスラエルに対して何もする必要はない、という。

大宣教命令もすでに回復しているから、今後世界の民族の弟子化を行う必要はない、という。

フルプレテリズムは、紀元70年にすべてが回復し、成就したと考えるから、「それでは、今我々は何をすべきか?」について明確な回答を与えることができない。

神は、出エジプトのイスラエルに対して、「あなたがたにカナンの土地を与える」と宣言された。ここでその土地の所有権は「法的に」移った。しかし、神はその後「だから、行って征服しなさい」と命令された。

カナン征服には実際に戦いが必要だった。

紀元70年に「法的な」再臨は実現した。イエスは、イスラエルを裁くために来られ、イスラエルに審判が下った。

新天新地は「法的に」到来した。迫害を耐え忍んだイスラエル人クリスチャンは、新天新地を与えられた。

しかし、「実際的に」は到来していない。

実際的な新天新地は、紀元70年以降の歴史の中で、大宣教命令の実行とともに徐々に世界に広がりつつあり、最後に実際的な再臨によって完全に到来する。

これがパーシャル・プレテリズムに基づく終末論であり、これ以外に聖書の終末預言を矛盾なく解釈することは不可能だ。

 

 

2007年8月12日

 

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