ディスペンセーショナリズムの変化
旧いディスペンセーショナリズムは、律法はわざの契約――つまり、自力救済の契約――に属すると考えていた。
スコフィールドは、「イスラエルが性急にも律法を受け入れたその時、約束の時代が終わった。シナイにおいて、彼らは恵みを捨て、律法を選び取った。」(”Old” Scofield Bible, p. 20, n.1.)と述べた。
新スコフィールド聖書の出エジプト記19・5においても、「モーセ契約」は、アブラハム契約に一時的に追加されたものに過ぎないと言われている。
クリスチャンは、「条件的な、モーセのわざの契約――つまり、律法――の下にはおらず、無条件的な、新しい恵みの契約の下にいる」と(”New” Scofield Bible, p. 95, n. 2.)。
しかし、奇妙なことに新スコフィールド聖書では、それと真逆なことが言われている。
「(律法は)いのちの道として与えられたのではなく、…すでにアブラハム契約の中にいて、血の犠牲によって罪を覆われた人々にとっての生活規則として与えられたのである。」(”New” Scofield Bible, p. 94, n.1.)
さらに次のようにも述べている。
「律法は、ここにおいて救済の手段として与えられているのではなく、すでに民族として贖いを受けたイスラエルが、服従を通じてそのふさわしい運命を成就するのに用いる手段として提供されているのである。」この知識は、「きわめて重大」である。(同、p. 94, n.2.)
これは、まるで契約神学である。
どちらが本心なのだろうか。
律法は人間の自力救済のために一時的に与えられたと考えているのか、それとも、契約神学と同様に、「服従を通じてそのふさわしい運命を成就するのに用いる手段」と考えているのか。
この矛盾は、ディスペンセーショナリズムの揺らぎを表している。
律法を自力救済の道具と見る見方では、もはや現実的に教会を指導することができないと明らかになってきたからである。
ディスペンセーショナリズムの契約神学化が進行している。
2005年10月20日
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