ターゲットを見失わないようにしよう


民主主義教育の一つの弊害は、「多数派への信仰」である。

選挙においても、商売においても、軍事においても、多数派には力がある。これは事実だ。

商売において、一日に数人の人しか入らないレストランはつぶれて、数百人の人が入るところは生き残る。

選挙において、数万人の人が投票した候補者は当選し、数百人しか投票しなかった候補者は落選する。議員が多数派である派閥は少数派よりも、議会において力がある。

数は力である。

しかし、同時に認めなければならないのは、数は力であっても、「絶対的な力」ではない。

これを忘れると、商売や選挙の論理を宗教にまで適用しようとする愚か者が現われる。

「tomiさん、あなたの考えは誰も信じていないではないですか。そんなことやっても無駄ですよ。」という人は、多数派の論理を、神の御言葉にまで適用するという間違いを犯している。

真理を扱う宗教論議において、多数派の論理を持ち出すことはできない。

三位一体の信条を決定した古代の会議において、三位一体論は他の数多くの異なる議論の中において少数派であったが最後に生き残った。

ルターはローマ・カトリックに対して一枚の質問状を掲げただけだったが、大きな運動に発展し、歴史を変えた。

神は、多数派ではなく、少数の人を用いられて、新しいことをはじめられる。

歴史とは、神が、少数の人を立てて、あることをはじめられ、それが大きくなると、そこに堕落が起こり、またその中から少数の人を立てて、新しい運動をはじめる、・・・という連続である。

今日、人々が、歴史を動かすのは常に多数派である、と考えているのは、間違った民主主義教育の影響である。

歴史の根本的な推進力は、神の力である。人間のそれではない。

神は歴史の背後において、御国の進展のために力強い御手をもって人を動かしておられるのだ。

だから、多数派であるか少数派であるかは関係ないのである。

社会の大多数の人々がどんな意見を持とうが、まったく関係ない。

神は少数の人々に真理を与えて、それを強引に宣伝させ、彼らの周りに人を集めて、それを多数派に成長させ、歴史を変えるのである。

人間の社会において、大多数の人々は、「リードされる人々」である。彼らはそんなに深くものを考えているわけではなく、常に常識に振り回される人々である。

それが悪いと言うわけではない。ただ、賜物の違いなのである。大多数の人々は、思想について考える賜物はない。抽象的な議論ができる人は社会の中のごく一握りの人々である。

ほとんどの人々は、社会の核を形成している思想や宗教の内容にまで立ち入って考える能力も時間もない。ただ、社会のシステム自体が金属疲労を起こしているという感覚だけは持っている。しかし、何が原因かは深くつっこんで考えていない。

彼らは、それを考えて、リードできる人々を求めている。学者、政治家、法律家、教育者、神学者、牧師など、旧約時代のイスラエルにおいてレビ族が担っていた勤めに携わっている人々には、この議論を行う責任があり、人々を正しい道に導く責任がある。

問題は、常にトップにある。社会の問題はつきつめれば、思想、哲学、世界観、宗教にある。

だから、哲学や思想について関心を持っている人々は、妥協せずに真理だけを徹底して追求する責任があるのだ。神は、そのような賜物や能力を持っている人々に、責任を問うておられる。

社会の大多数の人々が何を考えているか、どういう印象を持っているかはまったくこの領域において関係ない。

まず思想の変革がある。そして、その影響は、時間とともに社会に現われる。学者は、大学で大学生に教え、神学者は神学校で未来の牧師に教える。大学生や牧師たちは、それぞれ社会に出て行き、人々にその新しい思想を伝える。人々はその新しい思想の洗礼を受けて、社会において具体的に活動する。

時間はかかるが思想はかならず結果を生む。そして、社会の思潮は変わるのだ。思想が社会に及ぼす巨大な影響についてM・ケインズは次のように述べる。

「経済学者や政治学者の思想は、それが正しい場合にも間違っている場合にも、一般に考えられているよりもはるかに強力である。事実、世界を支配するのはそれ以外にはないのである。

どのような知的影響とも無縁であるとみずから信じている実際家たちも、過去のある経済学者の奴隷であるのが普通である。権力の座にあって天声を聞くと称する狂人たちも、数年前のある三文学者から彼らの気違いじみた考えを引き出しているのである。

私は、既得権益の力は思想の漸次的な浸透に比べて著しく誇張されていると思う。もちろん、思想の浸透はただちにではなく、ある時間をおいた後に行われるものである。

なぜなら、経済哲学及び政治哲学の分野では、二十五歳ないし三十歳以後になって新しい理論の影響を受ける人は多くなく、したがって官僚や政治家さらには煽動家でさえも、現在の自体に適用する思想はおそらく最新のものではないからである。しかし、遅かれ早かれ、良かれ悪かれ危険なものは、既得権益ではなくて思想である。」

究極的な意味において、社会は多数派によって動いているというのは幻想である。

それゆえ、今の民主主義教育は、究極的な意味において、間違っている。

我々は、ターゲットを見失わないようにしよう。ターゲットは、ボトムではなくトップだ。

 

 

2004年8月3日

 

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