選びにはレベルがある


このサイトの読者の方で、長年の謎が解けたと言われる方が多い。

ある方は、「子供の頃に『この学校のシステムを作った奴は誰だ?』と恨みを抱いていた。そして、『真理とはなんですか!』と叫んでいた」と言われた。

そして、このサイトを見て、謎が氷解したと言われる。

義務教育のシステムは、『共産党宣言』においてマルクスが唱えたものであり、そのマルクスは、イルミナティの依頼によってそれを書いたようだ。
http://forums.kittierocks.com/index.php?showtopic=9952&mode=linearplus

つまり、今の学校制度は、イルミナティの産物なのだ。

目的は、「神から与えられた個性の抑圧と、国家体制への盲目的従順」である。

こういった騙しの構造に気づいた人々は、何らかの形で知識を得て、謎解きを得られる。

神は求める人に、回答をお与えになるのだ。

というよりも、神がまずその人に疑問を起こさせ給う。


神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ2・13)

神が最初であり、最後なのだ。

わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。(黙示録22・13)

神は、我々の内側に働いて「矛盾」「疑問」「不条理」に気づかせ給う。

そして、(多くの場合)長年にわたって、その矛盾や疑問、不条理に悩ませられる。

それは、回答が与えられたときに、それを心に焼き付けるためである。

餓えに陥らないと、食物のありがたみが深く分からないのと同じように、試練に遭わない限り、人間は神からの回答に感謝しないし、簡単に忘れてしまう。

神は我々一人一人に、異なる使命を与えておられる。その使命に合わせて問題意識を持たせ給う。

問題意識は、試練において生まれる。だから、神は我々を試練の中に放り込まれる。

回答への飢餓が生まれ、その飢餓が頂点に達したころに、回答をお与えになる。

我々は、その回答、教訓を強烈に印象付けられる。

そして、この回答、教訓が、我々の人生の使命につながっていく。

だから、私は、試練とは穴掘りだと思う。

苦しみの中において、大きな穴ができる。そして、神が後にその穴を埋めてくださる。

穴が生じるのは、神によって埋められるためである。

神の選びの人の場合、その穴は神以外のいかなるものによっても埋められない。

人間的な方法で穴を埋められた場合、神はすぐに別の穴を掘られる。

神の選びの人でない場合、穴が開いても別のものがふさぎに来る。

そして、それで満足してしまう。だから、いつまでたっても悟りがない。

聖書以外の解決に安住できる人とはこのような人である。

人それぞれに神の恵みの度合いが異なる。

だから、どのレベルで満足させるかは神の決定である。

徹底して聖書的な解決を求めるように導かれている人は、非常に愛されている人である。

神が尊い目的のために選ばれた人だ。

すべては選びである。我々の問題ではない。

我々は、情報は提供できるが、受け取る人間の側で取捨選択がある。

聖書的回答が「過激」と映る人々は、「この人の場合、中途半端なレベルでよい」と神が決定されたからだ。

本当に御国のために選ばれている人は、中途半端な回答で満足できないように作られている。

選びにはレベルがあるのだ。

 

 

2009年1月17日

 

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