非現実的憲法が生み出す矛盾にどう対処するのか?


(1)
小泉首相は、靖国参拝は個人の信条だと発言した。

「首相の職務としてではなく、わたしの信条から発している参拝に他の国が干渉すべきではないと思っている。」

http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/yasukuni.html?d=02kyodo2005060201003832&cat=38&typ=t

個人の信条なら、個人で参拝すればよい。なぜ「首相として」参拝するのか?

我々国民も、他国も、首相個人の信条、趣味、嗜好などについてとやかく言うつもりはさらさらない。

「首相の職務としてではなく」というなら「個人として参拝しました」と言えば問題は何もないのだ。

「首相として参拝した」と言えば、現行憲法にてらして、「公人が宗教行事に参加してよいのか」と厳しく問われるのは覚悟すべきだ。

一体、この国は、「靖国神道を国教とする宗教国家」なのか?

もう一度尋ねたい。

一体、この国は、「靖国神道を国教とする宗教国家」なのか?

そうじゃなければ、「首相として」参拝するのはやめてもらいたい。

もし首相として参拝したいのなら、まず憲法を修正しなさい。

「そんな固いこと言わなくてもいいじゃないか。」と言うだろうか?

これは、「固いこと」じゃないよ。

我々の生活を直撃する問題だ。

宗教というきわめて個人的なデリケートな問題について「固いこと言うな」という国家は、その他のすべてにおいて「固いこと言うな」と言い出すだろう。

(2)
そもそも政教分離などという考え方が問題なのだ。

人間が宗教的動物である以上、政教分離など幻想である。

法律は、何が善で何が悪であるかという倫理観に基づいている。

その法律によって成立している社会とは、不可避的に宗教的組織である。

だから、問題は、「日本を宗教に基づく組織にすべきかどうか」ということではなく、「日本をどの宗教に基づく組織にすべきか」なのである。

現在は、ほとんどの国が、ヒューマニズムという名前のルネサンス以降の人間中心主義に基づいて建設されている(イスラム諸国はイスラム教に基づいて作られているが)。

私は、露骨に人間崇拝を行う靖国神道よりも、今のヒューマニズム教のほうが、クリスチャンにとって害はないと考えている。

だから、首相の公的参拝に反対しているのだ。

しかし、「公人は宗教とまったく関係してはならない」とか「公人はどの宗教にもかかわってはならない」と言うつもりはまったくない。

なぜならば、そ・れ・は・不・可・能・だ・か・ら。

人間が宗教と無関係に行動することは一瞬一秒たりともできない。

人間の行動には、「常に」善悪の判断が伴う。人間は「常に」倫理的責任を負っている。

(3)
現行憲法は、憲法第9条とか政教分離とか、あまりにも人間の基本的な性質と矛盾した現実離れした欠陥憲法なため、憲法として長生きできないしろものなのである。

明日突然中国とか北朝鮮が参戦したらどうするのか?

本当に日本は戦争を行える態勢になっているのか?

法的整備はなされているのか?

恐らくまだ不十分だろう。なぜこんな基本的なことがないがしろにされてきたのか?

憲法の制約があったからだ。第9条を守れ、とかいう抵抗勢力によって妨害があってまじめに国防のことを考えることができなかったからだ。

これまでは日本は日米安保のおかげだろうがこういった問題がなかった。しかし、今後もこのままだという保証はない。

政教分離についても、問題はこれから大きくなるだろう。

このまま政教分離の幻想のもとで無神論教育を続けるのか?

これからも、善悪の判断について自信がなく、そのため子供をしつける自信のない親を大量生産するのか?

神の被造物である人間は、あたかも神の被造物でないかのように振舞うことはできない。神に関する問題は、どこまで行ってもついて回るだろう。

そして、神に対して意地を張れば張るほど、混乱は増す一方だろう。

 

 

2005年6月3日

 

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