ものそのものは汚れていない
ある知人のクリスチャンが、「近代になって急激に発達した文明はすべてサタンによるものだ」と言った。
そこで、「科学革命や産業革命にはクリスチャンが多数関わっていますよ」というと、「いや、クリスチャンといってもそれが本当のクリスチャンかどうかは分からない」と言った。
「それじゃあ、現代文明がサタンによるものであるとしたら、それを利用することは罪だということになりますよね。あなたの自動車修理販売の仕事も罪ということになりませんか?」と尋ねると黙ってしまった。
これは、あまりにも過激な考え方であり、到底受け入れられるものではない。
これは、クリスチャンが文明について正しく教会によって教えられてこなかったことの証拠である。
彼が育った教会は、「清貧を尊び、世俗を遠ざけよ」と教える聖潔を重んじるグループに属している。
この教派の開祖は、「もうすぐ再臨があるから、家も建てるな、お墓も建てるな。教会は掘建て小屋のようなものでよい。」と言っていた。
その弟子が作った教派も会員数1万人を擁する日本では大きなグループだが、最近亡くなった彼は生前「私が死ぬ前に、キリストの再臨がある」と予言していたが見事に外れた。
ゴミを出すときに、注意しなければならないのは、燃えるものと燃えないものを分別し、資源になるゴミとならないゴミを分別することである。
こういった分別ができない人は、文字通り「無分別」な人であり、その混乱した頭によって周りに迷惑をかける人である。
聖書において、「聖潔」とは、世にあるものを何んでも拒否することではない。良いものも悪いものも、すべてごったまぜにしたまま捨ててしまうのは聖潔ではない。
パウロは「すべては聖い」(ローマ14・20)と言った。
そう、我々にとって、すべては聖いのだ。ものそのもので汚れているものはない。
「(神は)その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」(コロサイ1・20)
今日、旧約時代において汚れているとされた動物は聖くなっている。
万物を、御子によってご自身と「和解させてくださった」のである。
キリストの聖めの働きは万物に及んだのである。
じゃあ、ノンクリスチャンもみな聖くなっているのか。サタンも聖いのか?という疑問が起こるだろうが、この個所は、聖潔の基準が「ものそのもの」には置かれなくなったということを教えているだけであることに注意して欲しい。
たしかに十字架によって万物が聖められた。
全宇宙はキリストの血によって洗われた。
十字架以前と十字架以後の世界とはまったく異なる世界なのである。
それまでは、世界は神と和解していなかった。しかし、十字架後はあらゆるものが神と和解した。
しかし、それは、「ものそのもの」にもはや汚れは存在しないということでしかない。
以前は、イスラエルの土地は犠牲によって聖められた土地であり、聖地であったが、十字架以後は全地が聖地となった。
以前は、牛は聖い動物で、豚は汚れた動物だったが、十字架後は、すべての動物が聖くなった。
だから我々は、パレスチナの旅行を聖地旅行と言うべきではない。あの土地が特別に聖い土地であるというわけではないから。
クリスチャンは牛やよいが、豚を食べてはならないなどとも言ってはならない。
もはや「ものそのもの」には聖さも汚れもなくなったからだ。
では、我々にとってすべてが聖いのだから、何でも口にしてよいのか、というとそうではない。
パウロは先に挙げたローマ14・20で次のように続けている。
「しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人のばあいは、悪いのです。」
人の信仰や成長を邪魔する行為に利用されるとそのものは汚れるのだ。
つまり、心の問題である。
どのような心でそのものを用いるかが重要だ。
包丁は料理にも使えれば、殺人にも使える。
もはやものそのものに聖俗の区別はないが、それをどのような心で使うかによって聖にもなるし俗にもなる。
「冒涜的な」を意味する英語profaneという言葉は、語源から言えば、outside the temple という意味である(研究社『リーダーズ英和辞典』)。
つまり、「神殿の外」のもの、神殿と関係がないものはすべて冒涜であり、神を汚すものという意味である。
神礼拝と無関係に行われるものはすべて汚れている。
その心が神から離れて、神を拝み、神の栄光をあらわすために行われないものは、たとえそれが礼拝そのものであっても「冒涜」なのである。
政治・経済・芸術・文化・スポーツ・・・なんでも、神と無関係に行われるものは冒涜なのだ。
そういった意味において、我々は汚れの中に住んでおり、我々もその汚れに巻き込まれそうになる。
それほど、神と無関係に世界は動いている。
クリスチャンまでもが、ノンクリスチャンによる世俗化計画の尻馬に乗って、「政治や経済は、キリスト教の扱う領域ではない」などと言っている。
彼らは、政治や経済を神と関連づけないことによって、それらを汚しているのである。この世界全体を肥溜めにしようとしている敵の罠にはまっているのだ。
クリスチャンが正しい良心で使うことによってすべてのものは聖くなるが、邪悪な心で神からそれらを引き離そうとするとすべてのものは汚れるのだ。
クリスチャン教育において「すべてのことを神の栄光をあらわすためにする」ということを教え、また、それをみんなが実践することによって、世界は徐々に聖められていく。
文化や科学、技術そのものを聖俗で分ける考えは間違い。
ちなみに、あの友人は、コンピュータはサタンの創作だといって覚えようとしないので、完全に出遅れてしまった。
こんな教えじゃあ、クリスチャンは迷信や因習にとらわれる頑固おやじと同じように時代に対応できない人間になってしまう。
2005年2月20日
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