「世の終わりが近づきました」と言ってはならない!


あるディスペンセーショナリストのニュースレターに次のような言葉があった。

「まさに21世紀はテロ、ウィルス、地球温暖化、天災などで人々が傷つき殺される艱難時代に突入しました。聖書の預言では人類の2/3ぐらいが死んでしまうことになっています。経綸だから仕方がないと言ってしまえばおしまいですが、我々はこの被害を最小限にするよう努力し、これらの事柄がすべて神に背いているイスラエル及び全人類に対する神からの警告であることを知らせるべきです。」

(1)
たしかに、「テロ、ウィルス、地球温暖化、天災」はなくすよう努力すべきである。

この記事の倫理的内容に問題はない。

私が問題だと思うのは、簡単に「艱難時代に突入しました」と宣言することである。これは、ディスペンセーショナリズムのクリスチャンの悪い癖である。

これまで私は、何度「いよいよ艱難時代に突入しました」と聞かされてきたことか。

私が予備校に通っているころ、通学路によくスピーカーをつけて「世の終わりが近づきました」と言っている車を見た。

あれから30年である。いやいや、ディスペンセーショナリズムは、1830年代から「世の終わりが近づきました」と言い続けているのだ。

あの共産主義者エンゲルスもかつてクリスチャンだったころ「世の終わりは近い」と叫んでいた。

もうイイカゲンなことを言うのを止めてくれ、と言いたい。クリスチャンは、当たりもしない「預言」を無責任に垂れ流す悪い癖を直してほしい。

何度も何度も外れる予言を聞くノンクリスチャンはどう思うか、考えたことがあるか?

もし、私があの時、「そうだ、世の終わりは近い。じゃあ、予備校なんて通うなんて無駄だ。」とでも考えて、あらぬ方向に進んだら、その責任をどう取ってくれるのか?

旧約時代、「勝手に」神の名を語って預言した人は殺されねばならなかった。

「…わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」(申命記18・22)

では「勝手に」語ったかそうでないかをどうやって見分けるかというと、「それが成就したかどうか」という点を見ることによってである。

「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」 (申命記18・22,20)

「世の終わりが近づきました」と200年も言いつづけている立場を「偽預言者」と呼んではならない理由は何もない。


(2)

この記事は、ディスペンセーショナリズムの弱点を見事に言い表している。

「聖書の預言では人類の2/3ぐらいが死んでしまうことになっています。経綸だから仕方がないと言ってしまえばおしまいですが、我々はこの被害を最小限にするよう努力(す)…べきです。」

聖書の預言では人類の3分の2が死んでしまうと言いながら、「この被害を最小限にするよう努力」しなければならない、というのはどういうことだろうか。

聖書の預言は絶対に成就するわけだ。

ということは、人類は3分の2が死んでしまうわけだ。

ならば、どうして「被害を最小限にするよう努力」できるのか???

自分で言っていて矛盾を感じないのだろうか?

はっきり言おう。

「人類は3分の2が死んでしまう」ともし聖書が預言しているとすれば、それは必ず成就するのだ。

変えることはできない。

そうしたら努力もへったくりもないのだ。

これが、ディスペンセーショナリズムの正体だ!

ディスペンセーショナリズムは、人間から平和への努力を奪う教えだ。

これが正統的な教えだとどうして言えるだろう。ディスペンセーショナリズムはカルトである。

人々から健全な向上心とやる気を奪い、ただひたすらに「伝道」にまい進させる「出家主義」であり、その意味においてオウムとあまり変わらない。

クリスチャンがこんな教えを信じている限り、健全な精神を持つ人々を獲得できない。

今、全国で見られるキリスト教の退潮の主要な原因は「不健全な教え」にあるのだ。

兄弟姉妹! もういいかげんに目を覚まそう!



スコフィールドの素顔

 

 

2004年5月29日

 

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