義人は信仰によって生きる2


イスラエルの歩みは、クリスチャンの人生のモデルである。良い意味でも、悪い意味でも。

エジプトとカナンの間には荒野があった。

エジプトは、奴隷の地。カナンは自由の地。

奴隷の地から自由の地にいたるには、途中において誘惑を経験しなければならない。

我々は、生まれながらにサタンの奴隷であった。神が嫌いだった。

神の法や神の支配が嫌いだった。

その代わりに、サタンの法やサタンの支配を受けていた。

しかし、サタンの過酷な支配から逃れたくてイエス・キリストの贖いを信じた。

イエス・キリストにおいて解放された。

しかし、ばら色の生活が始まると考えたら間違いだ。

荒野が待っていた。

信仰に入りたてのころは、ばら色を一時的に味わうことができる。

しかし、しばらくすると、試練の中に入れられる。

紅海をわたったら砂漠だ。

サソリや毒蛇のいる荒野を歩かねばならない。岩と砂以外なにも見当たらない。昼は灼熱、夜は極寒の地だ。

クリスチャンが約束の地に入るには、その過程で訓練が待っている。

それは、信仰の訓練だ。

カナンという約束だけが与えられている。しかし、現実は岩と砂だけ。

この「約束だけ。実際は過酷」という期間をクリスチャンは耐え忍ばねばならない。

この期間において、我々は、「どれだけ約束だけでやっていけるか」を試される。

「約束?そんなもの当てになるか。実際にこんな悲惨な状態なら意味がないじゃないか。信仰なんてくそくらえだ。」と自暴自棄になった者は、ふるいにかけられて、脱落する。

カナンの天国を味わえるのは、ただ「御言葉」だけにしがみつくことができる人だ。

短気な人は振るわれる。

およそ実質的に価値のあるものは、短気では得られない。

学力を伸ばすことができる人は、成績が低迷する中でじっと耐えることができる人だ。

何かの事業を達成する人は、結果が出ない時期を信念で乗り越えられる人だ。

こういう忍耐ができない人間は、手前に現れる快楽におぼれる。

手っ取り早く手に入れられるものに惹かれる。

だから、教会成長学は、誘惑なのだ。

「教理の勉強などやっても、教会員は増えない。カリスマ的な伝道者を呼んで、魅力的な歌手に歌ってもらい客を集めなさい」という。

最近では預言喫茶なるものもあるという。

こういう正統的な手法によらずに人を集めても、教会が疲弊するだけだ。

正統的な方法とは、聖書の学びである。聖書に関する知識と正しい理解がなければ、一人一人が成長していないので、教会の土台がいつまでたってもできない。

土台がぐらぐらしている中で人数集めをやればどうなるだろうか。

負担で家が傾く。

教会成長学は、何年やっても振り出しに戻る教会しか生まなかった。

入れ替わり立ち代りいろんな人が来るが、定着しない。

どうして?

教えが間違っているか、正しい教えがないからだ。

教会成長をあせって、土台を築く前に人だけ集めたから現状がある。

付け焼刃の方法を改めて、じっくり信徒を教育せよ。

そして、忍耐ができるクリスチャンを育てよ。

約束に頼って現実を見ない、じっくりと長期的に努力できる人間を育てるべきだ。

神の計画とは、強固な使命感を持つクリスチャンの家族を作ることだ。そして、その家庭が何世代にもわたって信仰と富を増幅させ、社会に対して影響力を与えられるようにすることだ。

教会成長学は、その場限りのクリスチャンを大量生産した。

荒野において自暴自棄になるようなクリスチャンを。

もう一度、我々はやり方を考え直すべきだ。

 

 

2010年2月4日

 

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