「聖書だけが啓示だ」という教えは間違いだ
(1)
「私は聖書だけでよい。他の一切は不要。」というならば、牧師や伝道者、教師などは不要ということか。
聖書では、「怠け者よ。蟻を見よ。」とある。
自然から主の戒めを学べと。
「天は神の栄光を告げ知らせる」とある。
自然は神がどのようなお方であるかを啓示している。
「聖書だけでよい」ということは、「自然を通して学べ」という聖書の教えと矛盾する。
はっきり言おう。
「聖書だけでよい」という教えは間違いだ。
啓示には、特殊啓示と一般啓示があるという教理は基本中の基本である。
(2)「預言は廃れた」という教えは間違いである。
愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。
私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。(1コリント13・8-12)
ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう「知識」のことばが与えられ、・・・
また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる「知識」とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。(1コリント12・8、13・2)
「パウロは、完全なものがやってくれば、不完全なものを補うあらゆるものは廃れる、と言う。しかし、その完全なものとはいつ来るのだろうか。それは、まさしく、死とともに始まるのだ。というのも、我々は死ぬ時に、肉体を脱ぎ捨てるだけではなく、多くの欠点をも脱ぎ捨てるからである。…それゆえ、我々の信仰は、現在、神を不在者として見ているのである。なぜだろう。我々の信仰は、神の御顔を[直に]見ているわけではなく、鏡の中にその御姿を映すことで満足しているからである。しかし、我々がこの世を去って、神の御許に行く時には、神を間近に、目前に見ることになるのだ。」(Calvin, John, Calvin's Commentaries: 1 Corinthians, (Albany, OR: Ages Software, Inc.) 1998).
2008年6月29日
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