私の主張と現代のカルヴァン主義者と違う点


私の発言が他のカルヴァン主義者と違うのは、主に

(1)霊的現象を肯定する
(2)天皇を肯定する
(3)神道について肯定的発言をする

という点であろう。

セオノミーやポスト・ミレは、歴史的にカルヴァン主義者が唱えてきたことであるから「違い」とは言えない。

しかし、霊の追い出しについて述べたり、天皇制を否定しなかったり、神道の起源について触れるのは私くらいであろう。

これにはきちんとした理由がある。レッテルを貼ってむげに拒否しないでいただきたい。

(1)霊的現象を拒否する今日のカルヴァン主義者の傾向は、聖書に基づくものではなく、合理主義の原理を受け入れたからである。

言うまでもないことだが、合理主義とは、聖書からではなく、人間理性から認識を開始することから生まれた思想である。デカルトが「我思うゆえに我あり」と述べ、自分の理性を唯一確実な出発点として受け入れ、そこから認識を拡大するという方法を開始した。それ以降、人類は、科学による論証的認識を絶対視してきた。

しかし、人間理性が誤りない土台であるということは、誰も証明できないのである。聖書は、人間理性は堕落しているので、頼りにならない、と述べている。そして、「神を恐れることは知識のはじめである」と宣言し、人間の知識を、神への恐れの下に置かねばならないと主張している。

それゆえ、私は、「聖書が霊の憑依や追い出しについて述べているならば、科学がどう述べたとしても、それを信じるべきだ」と考える。神癒や除霊などについて疑問視する今日のカルヴァン主義者の傾向は、根拠のないものである。

(2)天皇を肯定する

カルヴァン主義者は、日本を戦争に導いた右翼的勢力への反動として、天皇を否定する傾向がある。しかし、聖書は「今立てられている権威を敬え」と述べているので、私は天皇を否定するべきではないと考える。我々の上に権威が立てられているならば、その権威をそのまま認めて、正しい方向に向かうように祈るべきである。

パウロは、当時礼拝を強制していたローマ皇帝を廃位させよう、などと主張せず、むしろ、皇帝の権威に服従せよと勧めた(ローマ13章)。

我々は、体制を変革することによって世界を変えるという方法を捨てるべきである。もちろん、その機会が合法的に与えられているならば、よりよい体制を築くために働くべきだが、そうではなければ、その体制をそのまま受け入れて、聖霊の内的活動によって人の心を変化させることをまず第一に求めるべきだ。

天皇制が聖書的ではないというならば、天皇制を廃止することを求めるよりも、天皇がクリスチャンになって、天皇制自体が聖書的になるように祈り求めるべきである。

イラク戦争に賛同するアメリカのファンダメンタリズムのクリスチャンは、体制の外的変革によって世の中が変わると主張するネオコンに追従した。これは、環境決定論に基づく革命的行動であって、聖書の思想ではない。

ヨセフが権力に服従することを通じて徐々に権威を増していったように、クリスチャンは、立てられた権威である日本の体制を尊重することによってその中において徐々に権威を獲得すべきである。

(3)神道について肯定的発言をするのは、べつに神道にこびているわけでも、クリスチャンに神道を勧めているわけでもない。

現在、神道に働いている霊は悪霊である。なぜか。聖書は、「イエスを主と告白しない霊は悪霊である」とはっきりと宣言しているからである。

私が神道について肯定的な発言をするのは、神道の成り立ちにユダヤ教やキリスト教が大きく影響を与えていると思われるからである。

学問的な意味においては十分な論証ができるわけではない。資料が不足しているので、状況証拠しか提示できないのであるが、しかし、だからといって、何も発言してはならないという道理はない。

いや、むしろ、神道の成立について調べることが日本人のルーツを探る上で大きな意味があるし、それに