十字架のイエスを痛めつけることによって癒される???



<O様>

先日は詳細な御解説ありがとうございました。ようやく溜飲が下がりました。

さて、細木和子の件ですが、

「今日、教会ですら、へんちくりんな「愛」で充満している。
(中略)
いい事を言ってくれるのだが、サタンが最後に連れて行くのは「偽り」であり、「滅び」である。
 人々に偶像礼拝をさせて、罪の世界に引きずり込むのである。
 偽預言者とは、光の御使いに偽装してくるのである。」

さすがに教会で「細木ファン」はいませんが、残念なことに偶像礼拝、「偽り」ははびこっています(ベニー・ヒン・シンパは三位一体の神でなく、ベニー・ヒンに「礼拝」を捧げている)そして、富井先生御指摘の通り。「へんちくりんな「愛」で充満している」のです。

その一つが「イエスを槍で突く」という教えです。
悩み・苦しみ・心の病をかかえている兄弟姉妹に向かって「あなたが十字架の上のイエス・キリストを槍で突くんですよ。さあ突きなさい、もっともっと突き刺しなさい。」
****カウンセリングで有名な某牧師の教えだそうですが、これもシンパの方々は狂信的に信奉しています。
十字架の上のイエス・キリストを槍で突く??
極端な話、台所の包丁やフォークでも良いのだそうです。
気が晴れるまでグサグサ突き刺す、そしてカタルシスを得る。
キリストの十字架への完全な冒涜、百歩下がって贖いの御業への根本的無理解だと思うのですが・・・それも牧師が講壇で語り、テープを聴いた全国の兄弟姉妹が毎日「グサグサ」している・・・誰も疑問を抱かない・・・慄然として背中が寒くなりました。
イエス様がそんなこと一度でもおっしゃったでしょうか?パウロやペテロやヨハネ、ユダが書簡に書き残したでしょうか?さかのぼって旧約の律法で捧げられたいけにえを肉刺しでつつき回すなどとの戒律があったでしょうか?
念のため新旧約66巻確認しましたが、私の検索では、それを支持する聖句は見つかりませんでした。

兄弟姉妹は既にサタンに「偽り」の断崖絶壁に連れて行かれてしまったのではないか?と私は憂えるのですが、如何でしょうか?

お忙しい中恐縮ですが、宜しく御教示下さい。

<tomi>

おそらくあの牧師のことでしょうが、その教会に20年ほど前に神学校の授業で訪問したことがあります。

彼はこう言っていました。

「人間は、人格的なものによって傷けられた場合には、人格的なものを傷つけないと傷は癒えない。だから、電信柱を蹴っ飛ばしても傷を癒すことはできない。人格を傷つけるために、イエスは存在する。イエスを攻撃し、その血潮を見るときに、我々の傷は癒される。」

これを聞いたときに、

「おいおい・・・」

と思いました。

これは、「カウンセラーに対する攻撃」を勧める心理学の教えのキリスト教化と思いました。

彼は、心理学の博士号を持っており、リベラルの教派に属しています。そのため、「聖書を前提とする」という立場にたたず、「人間の学問を優先する」という誤りを犯していました。

聖書を通して心理学を見るというのではなく、心理学を通して聖書を見るという立場にたつため、思考の方法がヒューマニズムなのです。

人間中心であり、聖書をふるいにかけて自分の好みの形に変えて咀嚼しています。聖書を題材として用いて、ヒューマニズム心理学を述べているに過ぎません。

聖書において被害を受けた場合には、相手から賠償を請求せよとあります。

犠牲の動物をサディズムの対象として攻撃せよと書いてありません。あくまでも犠牲の動物は、神に対する自分の罪の犠牲として捧げるのです。

何か身体的・精神的被害をこうむった場合は、それにふさわしい代償を求めることができます。

「目には目、歯には歯」です。

目を傷つけられたら、相手の目を損傷することができる。同等の金銭的負担を強いることができる。

このようにして、我々は、傷を修復する方法が提供されています。

イエスの犠牲を象徴する動物犠牲は、これとはまったく異なる目的で与えられたものです。

聖書において、犠牲の動物を痛めつけることによって、傷が言えるなんて書いてありませんし、当然のことながら、イエスを痛めつけるなんてことも命令されていません。

明らかにこの牧師の犠牲観は間違っており、それもグロテスクな間違いであり、嫌悪し、排除すべき教えで、異端に相当すると思います。

十字架のイエスは神です。

神を攻撃し、痛めつけるなんてのは、サタンがやることはあっても、神の御民が行うはずがありません。

このような教えを伝えている牧師の中に悪霊が入っていると考えることができます。

 

 

2006年8月14日

 

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