豊かになりたいなら分かち合うことである


「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。」(ローマ15・1)

異邦人の生き方は、「力がある人は、力のない人々を支配できる」というものである。

だから、ノンクリスチャンの社会では、たとえばクラブ活動や会社などで、先輩は後輩に対していばり、後輩は、ボール磨きなど、最も苦労の多い仕事をする。

西洋列強は、産業革命で蓄えた技術を使って、アジアやアフリカの国々に侵略して、そこから富を吸い上げた。

この搾取の歴史を見るときに、西洋諸国はキリスト教を正しく適用することに失敗したということがわかる。

科学や技術、近代政治制度などは、キリスト教から生まれ、発展した。

しかし、西洋諸国は神から与えられたこの高い地位と大きな力を、弱い国々を助けるために用いるのではなく、逆に弱い者を支配するために用いた。

これが帝国主義時代の世界が失敗した根本的な原因である。

日本も、列強に追いつこうと富国強兵をして強くなったが、その力を他のアジア諸国を支配するために利用した。表面的には、大東亜共栄などといって、互恵的な関係を強調したが、実質的にはアジア諸国への侵略と利用だった。

聖書は、「力は、弱い人々を助けるために我々に与えられている」と述べている。

お金も、技術も、腕力も、すべて弱い人々を助けるためにある。

だから、力を正しく用いることに失敗する人は、その力を奪い取られる。神の祝福は、力を弱者のために使う人に下り、神の呪いは、力を弱者を支配するために使う人に下る。

貧困の問題の根源は、力を正しく用いることができなかったことにある。

金持ちが、政治家を利用して、他者の市場参入を妨害し、富を独占する体制を作ろうとするから、革命が起こるのである。

共産革命は、それを支持する貧民がいなければ成立しない。貧民が金持ちの搾取と横暴に反感を抱いていなければ、革命家は革命を起こすことができない。革命は貧困者の恨みを背景としてはじめて成立するのである。

金持ちが、自分の利益しか考えなくなれば、革命というしっぺ返しを食らう。

だから、このような金持ちは、近視眼の愚か者なのである。聖書に従って、自分の富を貧しい人々を助けるために利用すれば、長期的に見て、自分の影響力は拡大し、自分の支配は確立する。

エゴイズムは、結局誰も幸せにしない。

金持ちのエゴイズムから解放されるために革命運動に参加しても、革命後に得られる社会は、さらなる搾取である。

労働者が政権をとって、生産手段を独占したところで、その労働者のリーダーが堕落し、エゴイズムに走れば同じ運命が待っているだけだ。いや、共産主義のシステムは私有財産を認めないから、革命前よりもさらにひどい搾取にみまわれる。

問題は、社会制度を変えることにあるのではない。心を変えることである。

エゴイズムを捨てることにこそ解決はある。

「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきだ。自分を喜ばせるべきではない」とのパウロの言葉こそ、万人が幸せになる社会を築き上げるための指針である。

TV番組で、ブータンで農業指導をした一人の日本人が紹介されていた。野菜を手に入れることが難しい土地において効果的な野菜作りの方法を教え、今では種を輸出できるほどになった。効果的な米作りの方法を教えた結果、収量が飛躍的に増大した。

現地の人々といっしょになって汗を流し、その国の繁栄のために尽力した彼の業績をたたえて、ブータンの人々は彼に最高の爵位を与えた。亡くなった時には国葬で彼の死を悼んだ。

このような利他的な活動は、キリスト教の精神を体現している。

イラク戦争以来、今世界で復活しつつある帝国主義的覇権拡大主義は、暴力と悪の連鎖を生み出す以外にはない。

今アメリカが取っている、力のある者が力のない者を支配し、搾取する方法は、異邦人の方法であり、クリス