御言葉を最高権威以外のものとして人に提示してはならない


聖書では、御言葉は剣と呼ばれている。


救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。(エペソ6・17)

また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。(黙示録1・16)

だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。(黙示録2・16)

どうして御言葉は剣なのだろうか。

それは、御言葉は絶対の権威だからだ。

日本において、法律は絶対的な権威を持つ。法律に従わなければ逮捕される。罰せられる場合もある。

法律とは、一種の戦争の形態であり、法律は守らない人に戦いを挑む。

御言葉も、守らない者に戦いを挑む性質のものだ。

だから、剣なのだ。

そして、それは万物に対して絶対の権威を持っているから、あらゆる物を切り倒す力がある。

サタンですら、御言葉には絶対に勝てない。

御言葉にけちをつけ、それを批判するような人々は、御言葉の恐ろしさを知らないのだ。

それにむやみに触れるならば、自分の身が傷つき、場合によっては死ぬ。

御言葉とは、我々の理性でチェックしたり、裁いたりできるようなものではない。

御言葉は、それ以上の議論を一瞬のうちに黙らせる最高権威だ。

だから、我々は、ノンクリスチャンとの議論において、御言葉以外の「共通土台」からスタートしてはならない。

例えば、ノンクリスチャンが、「聖書を前提にするなんて、色眼鏡をかけていますよ。まっさらな状態からスタートしましょう。」と言って、議論をスタートしたら、我々は神と御言葉を裁く位置に立つことになる。

神と御言葉を相対化することになる。

それはそのスタート時点ですでに矛盾したことを行うことになるのだ。

なぜならば、相対的な神やその言葉とは、神でも神の言葉でもないからだ。

我々は、神や御言葉を相対化する権利は一切ない。だから、神と御言葉を最高権威として、前提として徹頭徹尾据える以外にはないのだ。

「え〜、それじゃあ、ノンクリスチャンは納得しませんよ。彼らは神を信じていないのですから。」というクリスチャンがいるかもしれない。

我々は、彼に対してこういわねばならない。

「いや、ノンクリスチャンも神を知っているのですよ。」と。

なぜだろうか。ノンクリスチャンは本当に神を知っているのだろうか。

なぜなら、神について知りうることは、彼ら(ノンクリスチャン)に明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ1・19-20)

ノンクリスチャンに「神がご自身について知りうることを明らかにされた」のだ。

だから、人間は誰であっても、「不可避的に」神を知っている。

神を知らないとか信じないという人は、嘘・を・つ・い・て・い・る・の・だ。

だから、無神論の前提から議論をスタートしてはならない。

我々は、御言葉を、「宣言」「最高権威」「法」以外として誰に対してでも提示してはならない。

それは、あらゆるものを切り倒す剣である。

それ以外のものとして、提示する人は、偽る者である。

 

 

2008年10月22日

 

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