聖書を疑うことは頑迷と逸脱への第一歩である
私が、神道について書いているのは、神社にお参りに行けとか、神道とキリスト教を融合しようとしているとかそんなトンデモナイことを言おうとしているのではないことを注記する。
たとえば、エホバの証人がキリスト教と同源を持つと主張したからといって、エホバの証人を信じなさいと主張していることにはならないと同じである。
私は、古代においてユダヤ人やクリスチャンが世界の様々な人々に伝道したならば、その伝道の実は様々な形で後代の人々に受け継がれたはずだと考える。
事実、仏教の弥勒や神道の天照大神には、古代キリスト教のメシア思想の影響が見られる。
「弥勒や天照大神はメシア思想の影響を受けている」と述べたことが、どうして「危険」であり、仏教や神道への勧誘と受け取る人がいるのか、私にとっては謎である。
クリスチャンは識別眼を養う必要がある。
何でもかんでも受け入れるのも、また逆に何でもかんでも否定するのは子供のすることだ。
大人はしっかりとした判断の基準を持って、良いものと悪いものとを細かく識別できる。しかし、幼児にはそれができない。
クリスチャンには聖書という判断基準があるのだから、そこに固執すべきだ。聖書に立つ限り、とんでもないものを受け入れたり、まっとうなものを否定したりすることはない。
現在教会の中によく見られる、頑固な保守主義と、放埓な進歩主義は、聖書啓示から離れたことが原因なのである。
神の御言葉である聖書を疑うことは、頑迷と逸脱に落ちる第一歩である。
2004年4月19日
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