思想兵器としての教科書
ゲイリー・ノースがTextbooks as Ideological Weapons(思想兵器としての教科書)という題の論文を書いているので要約してご紹介する。
http://www.lewrockwell.com/
1850年以降、アメリカ大衆の考え方を支配したのは、公立学校において使用された教科書である。しかし、高校の教科書を収めた図書館はまれであり、資料集めには苦労が伴う。
フランシス・フィッツジェラルド(『アメリカ再訪(America Revisited)』)は、20世紀の公立高校の歴史と社会科学の教科書を調べた。著書の中で1965年以降のどのように思想的逸脱が進んだかを示し、新左翼などが、公立学校の教科書に関する既存の真理と学説をどのように破壊したかについて説明した。
デイビッド・セイヴィル・マズィーについてかなりの紙幅が割かれている。マズィーほどアメリカ史に関してアメリカ人の考え方に影響を与えた人間はいないだろう。1911年に出た第1版から1961年の最終版まで、マズィーの教科書ほどアメリカの学校で多く使用されたものはない。出版してわずか数年後に、他の教科書を合わせた以上の部数を売り上げた。
没後(1965年)、改訂版が出た。共著者アーサー・S・リンクは、米歴史学界主流派の代表的な学者であり、ウッドロー・ウィルソンの論文(プリンストン大学出版部)の編者であり、20世紀中ごろにおけるウィルソンの主要な伝記作家であった。
1922年版は800ページの大部である。歴史に関する説明の詳しさは、今日の大学の教科書に匹敵する。
マズィーは、ニューヨークのユニオン神学校の卒業生であった。ユニオン神学校は、1910年当時、アメリカの主流プロテスタント界の神学校の中でもっともリベラルな神学校であった。また、彼は、自覚的不可知論者の宗教団体『倫理的文化(Ethical Culture)』のリーダーであり、その宗教団体から『宗教としての倫理(Ethics as a Religion)』という本を出版した。数十年後、財政上の問題をかかえていたユニオン神学校を吸収することになるコロンビア大学の教授を務めた。
彼が著した教科書は、1850年以降世界中の公立学校において使用された教科書の典型であり、民族主義の知的防衛を目指していた。ナポレオンの登場以降、西洋全体を通じて、民族主義は国家の宗教となった。公立学校は、国家の神格化を図る民族主義者の教育機関と化した。
マズィーの教科書は、まず「植民地の背景」の章(54ページ)から始まる。次に「アメリカ革命」(50ページ)、そして、大統領の政策を中心としたアメリカ史の解説が続く。「ワシントンとアダムズ」、「ジェファーソンの政策」、「新民族主義」、「アンドリュー・ジャクソンの統治」・・・。
半世紀の間、マズィーの教科書は、何千万ものアメリカのティーンエイジャーに、「アメリカ史は大統領の政策の進化の過程である」と教え込んだ。これは、歴史を「搾取する王と、搾取される大衆」という観点から描いたそれまでの歴史記述の延長であった。つまり、どちらも焦点を「政治権力」に当てていたのである。
しかし、1787年以降、政治権力は救世主(メシア)として見られるようになった。メシア的政治は着実に王的政治を駆逐していった。1917-18年に最後の王たちが大陸欧州から追い出され、すぐ後にレーニン、スターリン、ヒトラーがやってきたのは、偶然ではなかった。
フランス革命が啓蒙主義左派内部におけるメシア的政治の主要事件であったのに対して、アメリカ革命は、啓蒙主義右派の内部におけるメシア的政治の主要事件であった。
しかし、どちらの革命も、教科書はこのように教えない。
アメリカ史に関する考え方を試す簡単なリトマス試験紙は、次の2つの出来事について(教科書が)どう説明しているかを調べることである。つまり、(1)連邦主義者と反連邦主義者の論争、(2)リンカーン政府と南北戦争の結果。
親連邦主義者の教科書は、中央集権民族国家を教えるツールである。マズィーの教科書は、ビジネスにおける「おとり商法」と呼ばれるものの好例である。
1922年版では、まず「1788年」というおとりが提供される。
憲法は簡潔・明瞭・単純である。政治学の観点から見て、その独特な価値は、州政府を破壊もしくは吸収することなく、新連邦政府に主権を与えたという方法にあった。(145ページ)
次に、「1861–65年」という罠が用意される。
わが国は、その試練の過酷な炎の中で溶け合い真のユニオンとなった。州の連邦は、国民国家に置き換えられた。その戦争は、単に北部の南部に対する勝利だけではなく、自由の奴隷制に対する勝利でもあった。また、それは、民族主義の、州の権利に対する勝利でもあった・・・。(613ページ)
この解釈は、実際に、アメリカ史における「おとり商法」の最高傑作が生み出したもの――つまり、1787-88年(の憲法会議)――を反映している(http://www.demischools.org/philadelphia.pdf)。
マズィーの教科書の問題は、おとり商法の過程を弁護しているという点にあるのではなく、おとり商法をおとり商法として認識していないという点にある。
その過程に関するマズィーの教科書の説明を読むと、彼がそれをクーデターであることを認識しているということが明確に分かるが、しかし、彼はそれをクーデターの名で呼ぶことは拒んだ。
マズィーの教科書は、主要な公立学校向け教科書出版会社Ginn & Coから出た。1893年に、この会社は、コロンビア大学の憲法史学者ジョン・W・バージェスのPolitical
Science and Comparative Constitutional Law, vol. 1, Sovereignty and
Libertyを出版した。
バージェスは、マジソンとその仲間たちが1787年に行ったこと(クーデター)を率直に認めた。
アメリカ人の指導者たちはついに、アメリカという国の全体的な問題について慎重に検討するために呼び集められた。彼らは、空しい好奇心や大衆の粗野な批判から自らを守るために扉をしっかりと閉め、決定に多数決の原理を採用し、アメリカを再編し、まったく新しい中央政府を作るために会議を始めた・・・。
アメリカ連合国臨時議会や連邦立法府や一般大衆は、この会議でそのような問題が議論されているとは理解していなかった。一般人は「彼らは、連邦政府の仕組みを改善し、その権力をいくぶん拡大するために集まっているのだろう」ぐらいにしか考えていなかった。
さらに、彼らが提出しようとしていた憲法の最初の基礎としてアメリカを再編するには、彼らにとって合法的な方法は一つしかなかった。つまり、その計画を「原案」として臨時議会に提出、臨時議会がそれを採用、連邦立法府に推薦、最後にすべての連邦構成州の立法府が承認、という手順であった。
このようにして合法的に確立された場合、新しい主権は、政府・・・が何らかの計画を採用する場合に訴えるべき合法的・合憲的な権威となれたはずであった。
しかし、憲法会議はそのような方法をまったく取らなかった。会議が実際に取った方法とは、すべての合法的に組織された権力の頭越しに・・・憲法制定の権能を帯び、政府の憲法・自由の憲法を制定し、それについて「国民投票」の実施を要求することであった。もしユリウス(カエサル)やナポレオンがこのようなことをしたならば、彼らは自らそれをクーデターと宣言したことだろう。
「国民投票」をする人々の側から見れば、この動きを革命と呼ぶべきだろう。憲法会議は、その活動と権力の横領を私が使ったのよりも穏健な名前で呼び、私が示したよりももっと合法的な方法に従うと宣言していた・・・。もちろん、一般大衆は、この手順の真の性格を分析することなどまったくできなかった。会議のメンバーの多くは自分たちが行っていることを完全には理解していなかった・・・。しかし、実際に、会議は「国民投票」の実施を要求することによって、議会と立法府から活動の自由を奪ったのである。
これらの組織は、会議の要求に無条件で従わない限り、自分の存在基盤を侮辱する必要に迫られたのであった。(pp. 104–6).
教科書は、耳障りの悪い真実を聞く用意ができている学者向けの論文ほど率直ではない。
南北戦争とは、1787-88年のクーデターの絶頂であった。それは、1787年に連邦主義者が意図的に隠したこと――つまり、憲法とは、アメリカの政治的中央集権化への踏み石である、ということ――を明らかにした。
反連邦主義者は、このことをよく理解しており、警告を発していた。パトリック・ヘンリーは、その中でも最も優れた人物である。しかし、歴史書は、勝者によって作られる。反連邦主義者は、1788年以来ずっと、変人または「信仰の薄い人」(アドレンエ・コッフ)として退けられてきた。
60万人もの死者(1861-65年)が出ても、反連邦主義者の警告は、1788年の霊的子孫には受け取られなかった。勝者は、1865年以降の教科書も書き続けた。
クリスチャンスクールで使用されているアメリカ史や公民の教科書は、公立学校の教科書の焼き直しでしかない。私は最近の記事において次のように書いた。
「もし私が間違っていると思うなら、1787年の反連邦主義者やアブラハム・リンカーン、セオドア・ルーズベルト、第一次世界大戦、第二次世界大戦、及び、現在のメシア的アメリカ合衆国が行った数々の大クルセードについて教科書がどのように述べているかを調べなさい。」
問題は、クリスチャンの親たちは、その起源が少なくとも150年前にまでさかのぼる政治的・宗教的プロパガンダの標的になってきたということである。彼らは、長い間、公立学校の歴史教科書の理念をほとんど鵜呑みにしてきた。
彼らは今でも、自分が子供時代に教えられた古い歌を子供に教え込んでいる。大学まで子供をそのように育てているのである。犠牲者は、自分が犠牲者であることに気づいていない。
彼らは、このような抑圧が、マズィーの教科書の第2章が記された時からずっと続いているということを知らない。マズィーは、植民地時代を非効率的な時代、不一致の時代、地域ごとに独裁が行われた時代(建国者たちがそこから開放してくれた)として描いた。
クリスチャンの両親は、今日、学生一人あたり毎年数千ドルものお金を出して子供たちをクリスチャンハイスクールに入れている。しかし、彼らはそこで使用されている教科書を読んだことがあるのだろうか。公立学校で教育を受けた数百万ものクリスチャンの両親が時代の知恵として受け入れてきたマズィーの教科書よりもそれらの教科書がわずかばかりでもましであると本当に言えるのだろうか。これらのクリスチャンスクールの教科書は、問題の根源――つまり、1787年におけるワシントン、マジソン、ハミルトン、他の民族主義者たち――を見据えているだろうか。
1961年から2001年まで40年間、R・J・ラッシュドゥーニーは、最も有名なプロテスタントのクリスチャン教育擁護論者であった。20世紀に他にもクリスチャン教育の擁護論者はいたが、彼ほど公教育への資金提供に徹底して反対した人はいなかった。他の人々は、クリスチャン教育は公教育への補足程度にしか考えていなかった。 ラッシュドゥーニーは強硬論者であった。「公立学校から資金を引き上げよ」と訴えた。
彼の理論は、責任の概念に基づいていた。「納税者ではなく、両親が自分の子供の教育に関して責任者である」と考えた。
彼は教会後援の学校を受け入れはしたが、それらは一般にミスを犯していると述べた。チャーチスクールにおいて、両親は、自分の子供たちの教育費全額を負担するわけではない。それゆえ、教育について、教会員と分担することになる。そうなると、お金の使い道について教会の内部において分裂が生じることになる。
ラッシュドゥーニーの理想は、ヴァージニア州のフェアファックス・クリスチャン・スクールのような利益追求型の学校か、もしくは、ホームスクーリングであった。
彼は、1987年のテキサス裁判でホームスクーラーを弁護した。彼の決定的な証言により、訴えた側の州は、ホームスクーラーに敗れた。これ以降、ホームスクーラーは、テキサス州政府の干渉から逃れることができるようになった。
ラッシュドゥーニーは、クリスチャンスクール運動において傑出した存在である。そのため、彼は、子供たちを地元の公立学校に送っている父兄からたえず面と向かって非難されてきた。彼らの言い分は「私たちの学校は違う」だった。
これらの父兄は、おそらく良心の呵責を感じているので、ラッシュドゥーニーの税金によって支えられている教育に対する徹底した非難から自分を守ろうとしているのだろう。
ラッシュドゥーニーは次のように述べた。
あなたの学校は、他のすべての公立学校と同様に、法律によって、国家の教科書委員会が承認した教科書を使用するように定められています。これらの教科書は、国の教育行政の基準と、「宗教的中立」の原理を強制する合衆国最高裁の基準に達していなければなりません。あなたの学校が誰によって運営されているかは重要ではありません。教師の半数が第一バプテスト教会に属していようがいまいが関係ありません。あなたの子供はそのような教科書を通じて国が教え込もうとしていることを教えられているのです。
どのような場合でも、議論はこの言葉によって終了した。もちろん父兄は、この「無料の」学校に子供たちを送り続けることを止めなかった。・・・父兄は、宗教的原則に基づくのではなく、安易な気持ちにもとづいて物事を判断していた。ラッシュドゥーニーはこのことをよく理解していた。彼は、「私たちの学校は違う」という脱出口を塞いだだけだった。自分の子供にどのような教科書が割り当てられているのかをじっくり腰を据えて調べたことがある人がこれらの公教育賛成論者たちの中に一人もいない、ということを彼は知っていた。・・・
結論
「私たちの学校は違う」と主張する父兄に対するラッシュドゥーニーの回答は、「教科書を読みなさい」であった。自分の子供の教育に関する責任を地元のクリスチャンスクールに丸投げしているすべての父兄に対する私の回答も同じである。
ホームスクーリングの場合、教師を務める母親は教科書を読まざるをえない。もしくは、教科書をまったく用いない。
しかし、これらの母親にも問題が残る。彼らは、若いころに公立学校において「公立学校が用意した歴史」を学んだからだ。彼らの父兄とそのまた父兄と同様に。子供に受け継がれるこのような誤謬の連鎖を断ち切るには数世代かかるだろう。
しかし、それはいつかは始めなければならない。今がその時だ。