ゲイリー・ノース著『携挙フィーバー』の前文
(必読)
あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない。 主は、ご自分の義のために、みおしえを広め、これを輝かすことを望まれた。
これは、かすめ奪われ、略奪された民のことであって、若い男たちはみな、わなにかかり、獄屋に閉じ込められた。彼らはかすめ奪われたが、助け出す者もなく、奪い取られても、それを返せと言う者もいない。
あなたがたのうち、だれが、これに耳を傾け、だれが、後々のために注意して聞くだろうか。(イザヤ42・20−23)
いよいよクリスチャンが回復すべき時が来た。しかし、正確に何を回復すべきなのだろうか。神は我々に何を回復するように求めておられるのだろうか。そして、どのようにしてそれを行うべきなのだろうか。この2つの重要な質問について、ディスペンセーショナリズムは意識的に沈黙している。これこそ、なぜディスペンセーショナリズムが今日、麻痺状態にあるかの理由である。これこそ、なぜディスペンセーショナリズムがついに最終局面に至ったかの理由である。間接的な証拠をお見せしよう。
ある国民がある主義を守るために戦い、敗れるというようなことは歴史上めったにあることではない。こういったまれなケースを除いて、運動が一夜にしてその主義を捨てることはない。多数の人々が運動を捨てて、一塊となって公然と自分たちがそれまで信じていた教えを捨てることはない。それでは、どうして運動は消えてしまうのだろうか。「消耗」である。彼らは、新しい信者を獲得することに失敗したのである。外部の人々を、または、内部の若者を獲得することに失敗したのである。
これこそ、現在ディスペンセーショナリズムに起こっていることである。それは、数百万もの熱心なディスペンセーショナリストが公然とプレ・ミレを捨てて、ア・ミレやポスト・ミレを採用したということではない。ディスペンセーショナリストが自らの子弟を州立大学に送り、その結果、子弟が両親の宗教を捨てつつあるということなのである。1870年代から1970年代にかけて、ディスペンセーショナリストは意識的に世界から身を引き、ある種の文化的・感情的なゲットーに入った。しかし、第2次世界大戦後の数年間、彼らは子供たちを大学に送り始めた。その大学とは、一般に、税金で運営されているヒューマニストの大学であった。彼らは、子供たちが経済的に豊かになるための階段を昇ることを期待した。そのためには大学に送らなければならないと考えたのだ。これは非常に大きな代償を必要とした。つまり、永遠の授業料という代償だ。クリスチャンの両親はこのことを漠然と理解していたが、「私の子供にはこの挑戦に耐えるだけの力がある」と考えた。しかし、子供たちの半数がその挑戦に耐えられなかった、と言っても言い過ぎではなかろう。あまりにも予測が甘かったということだ。
大学生活を生き残る
知的な学生が世俗の大学の試練を生き残るには、防衛――感情的・制度的・知的な防衛――が必要である。クリスチャンのカリキュラムを採用する高校の卒業生でない限り、高校時代にこれらの防衛力を身につけることは不可能である。ファンダメンタリストの中で、子供をクリスチャンの高校に通わせる親はほとんどいない。子供をホームスクーリングする親はもっと少ない。2週間にわたって開かれたすばらしい夏季セミナーにおいて、デイビッド・ノーベルは、150人の学生に対して「公立高校に通っている、または、通っていた人は手を挙げて。」と言った。少なくとも80パーセントの学生が手を挙げた。ノーベルが言うには、公立高校生の参加者が非常に少ないクラスが2つあるという。一つは、まだ学期が終わっていない時期に開かれたクラスで、参加しているのは、ホームスクーリングの生徒たちである。もう一つは、6日創造論に関するクラスである。(Summit
Ministries, 935 Osage Ave., Manitou Springs, Colorado 80829.)
この情報は、「ディスペンセーショナリズムはヒューマニズムとの戦争に敗れつつある」という私の主要な主張を補強してくれる。クリスチャンの両親は、体系的な努力を払う必要がある。子供たちをその進むべき道に相応しく訓練する必要がある。しかし、ディスペンセーショナリストの両親はこれを行いたがらない。彼らは自ら進んで子供たちをヒューマニストに捧げ、彼らに教育を委ねている。彼らは子供たちを税金で運営されている大学に送るか、または、ヒューマニズムの影響を強く受けたクリスチャンカレッジに送り、教育の過程を完成する。
知的劣等感
教養人の精神的な戦いにおいて、ディスペンセーショナリストは常に自分のことを非常に劣っていると考えており、敗北は避けられないと見ている。これこそ、ディスペンセーショナリズムのプレ・ミレが教えていることなのである。すなわち、このいわゆる教会時代――神秘の時代、大きな括弧に入れられた時代――において、教会は敗北する運命にある、と。第2次世界大戦前、大学に進学する高校生はわずかであり、ファンダメンタリストの高校生はさらに少なかった。進学に必要な背景、つまり進学資金を用意し、両親と同僚の後押しを得られる者はまれであった。第2次大戦後事情は変わった。GI法案が帰還兵に対して大学進学の道を開いたのだ。税金で運営する高等教育が普通化し、ファンダメンタリストたちがこの援助を利用し始めた。その結果は、消耗の過程であった。
優秀なファンダメンタリストの学生が大学に合格すると、さっそくヒューマニズムが彼らを襲い始めた。この襲撃を生き延びることができなかった学生がたくさんいた。心理学・哲学・経済学・教育・芸術のクラスを通じて彼らを助けてくれるディスペンセーショナリズム派の学者はまったくいなかった。ディスペンセーショナリズムがこれらの分野で学問的資料を作ったことは、まだないのである。ヒューマニストの教授たちは、この有名な無防備さを十分に利用している。西洋文明に関する1年生の授業は、クリスチャンの生徒を彼らの両親の偏見から引き離すべく組み立てられているのである。私はこれを実体験した。私は、戦後最も人気のある西洋文明のテキストの一つを共著した2人の学者のもとで学んだのである。彼らの一人は歴史家であり、キリスト教を徹底して毛嫌いしていた。もう一人は哲学者であり、キリスト教を単に愉しみのネタとして扱った。
資金不足のため、クリスチャンの学問では生涯をかけた戦いが強いられる。いわゆる世俗の領域において――実際のところ、世俗主義は非常に宗教的であるが――キリスト教の学問を作り上げるには、生涯をかけた研究が必要であり、さらに、政府に認可され、高度の教育を受け、潤沢な資金を持つ現代の学者たちに挑戦する意欲が必要である。この挑戦を行うには、クリスチャンは、クリスチャンの独特な世界・人生観が必要であり、それには、法と真理に関する対抗的体系が含まれている。ディスペンセーショナリストには対抗的な真理観があるけれども、対抗的な法律観がない。彼らは、ダーウィン以前のヒューマニズムが奉じていた法律観、学問や政治の世界においてはもはや真剣に考慮されていない法律観である「自然法」を採用してきた。ディスペンセーショナリストは、いまだに聖書的創造論に基づく独自の法律観を開発していない。ダーウィン主義者は、『種の起源』(1859年)の登場後30年以内に、法律・政治学・歴史・芸術の各分野を制圧した。ディスペンセーショナリストは、宇宙の起源に関する彼らの反ダーウィン主義的見解に基づいてこれらの分野を制圧しようとしてこなかった。(第9章を参照せよ。)
本書の目的
本書の目的は、私がクリスチャンの学問に関して著した24冊と、私が自腹を切ったり、資金を集めたりして出版したさらなる24冊のそれと同じである。つまり、私はクリスチャン、とくに大学生に、ヒューマニズムの代わりに信じるべき聖書的な代替物を提供しようと心に決めたのである。私は、これまで誰も私に提供したことのないものを彼らに提供しようと思ったのである。
私が回心し、イエス・キリストを信じたのは、1959年の7月、高校を卒業して大学に入ろうとしていた夏のことだった。友人が私を地元の聖書教会(プレ・ミレ、ディスペンセーショナリズム、ファンダメンタリズム)に誘ってくれたのだ。私は高校では非常に優秀な生徒であった。カリフォルニア州の奨学金を獲得し、西海岸では最も名誉ある教養大学であったポモナ大学へ進学した。ポモナ大学の私の学部アドバイザーは後で、カリフォルニア州知事選で、ジェリー・ブラウン(「アルバイト知事」)と戦い、彼をあと1パーセントで破るところまで追い詰めた。私は、17歳でヒューマニズムの試練の真中に放り込まれた。そのときクリスチャンになってすでに丸2ヶ月が経過していた。
1年生の2学期に、カリフォルニア大学リバーサイド校に移った。当時この大学はカリフォルニア大学のシステムの中で唯一4年制の教養大学であった。さらに4年間の履修を必要とする大学院は付属していなかった。私はそこでさらに12年間学び、1972年に博士号を取得した。しかし、私にとって最も大きな変化は、大学1年生の2学期に、「経済学に対するクリスチャン的な方法がなければならない」ということに気付いたことであった。私は、自由市場経済は正しく、社会主義経済は間違っているということに気付いていた。聖書が真理であることを知っていた。だから、私は、「聖書には、経済学に関して何か独特な教えが記されているに違いない」と結論したのだった。
私は次の3年間、クリスチャンの経済学に関する文献を探したが見つからなかった。そのような本はまったく存在しなかった。(『クリスチャンの経済学』という隔月のタブロイド紙があったが、実際のところは、億万長者のカルビにストJ・ハワード・ピューが出資する、ヒューマニストのマーケット新聞であり、聖書に基づく経済評論や分析の試みはまったく見られなかった。) 30年経った現在、状況はかなり良くなっている。クリスチャンの経済学を扱った本が若干出ている。その中には、筆者が書いた12冊の本も含まれる。クリスチャン経済学協会も存在する。ただし、その数百人のメンバーが明確なクリスチャン経済学に立った書物を著すことはまれである。むしろ、彼らは、たまたま他のクリスチャン学者の興味を引くようなテーマについて、学問的に認められる論文を書いているだけだ。しかし、1959年にそのようなものも皆無だったのだ。
他の分野においても状況は同じであった。誰も明確なクリスチャンの世界人生観について語る者はいなかった。ただし、ミシガン州以外ではまったく無名の書物の著者である少数のオランダ系米国人カルビニスト学者たちを除いては。ヘンリー・ヴァン・ティルの『キリスト教的文化概念(Christian
Concept of Culture)』が出版されたのは1959年のことであったが、私がその存在を知ったのは、1963年にカルビニストの学校であるウェストミンスター神学校に入学してからであった。1959年当時、ファンダメンタリストの学者が利用できる文献はまったく存在しなかったのである。『創世記の洪水(Genesis
Flood)』すら出版されていなかった。この本がようやく1961年に世に出たのは、カルビニスト学者R・J・ラッシュドゥーニーのおかげである。彼は、この本を出すように、小さなカルビニストの出版社Presbyterian
& Reformedを説得した。ファンダメンタリストの出版社Moody Pressは、それが有神進化論と非6日創造論にまっこうから反対しているのを知って、原稿チェックの段階で却下した(Henry
M. Morris, History of Modern Creationism (San Diego: Master Book Pubs., 1984),
p. 154.)。
1993年現在、ファンダメンタリストが学ぶことができるのは、C・I・スコフィールドの「断絶」理論(第9章)と袂を分かったヘンリー・モーリスと他のディスペンセーショナリストの創造論だけである。ファンダメンタリストの学生は、学的防衛を他の人々にまだ頼っているのである。
ディスペンセーショナリズム
対 学問
本書において私が論じているのは、「ディスペンセーショナリズムの法律観の本質には、『世俗の』分野においてクリスチャンの学問は成り立たないという世界観がある」ということだ。どの分野においても、ヒューマニズムに挑戦するには、まず聖書の独特な神観・人間観・法律観・時間観を知らなければならない(Gary North, Unconditional Surrender: God’s Program for Victory (3rd
ed.; Tyler, Texas: Institute for Christian Economics, 1988), Part I.)。ディスペンセーショナリストは、新約時代における旧約律法の有効性を否定するので、聖書の独特な法律観を喪失し、ヒューマニズムの法律観を採用せざるを得なくなっているのである。しかし、これは彼らの知的ジレンマの始まりでしかない。この時代における教会の未来に関するディスペンセーショナリズムの見解は、クリスチャンの学問の可能性を完全に否定した。ディスペンセーショナリストは、「クリスチャンがヒューマニズムの代替物を作り出すには時間が足りない。まして、ヒューマニズム文化に代わる文化を作り出すなんてまったく不可能だ。」と主張する。このような考え方によって、知的で学問的技術を有するディスペンセーショナリストは麻痺状態に陥っており、聖書に基づく代替物を作り出すことができなくなっている。彼らが学問的な発展を拒んでいるため、ファンダメンタリストの大学生は知的・思想的に無防備のままに放置されているのである。ナイーブな両親が信頼して送り込んだ教室の中で、子供たちは防御服も着ずにヒューマニストの攻撃を受けつづけている。
ビリーとボブ、ジェニーとスーは、フロアが男女混合(もっとひどい場合は、部屋が男女混合)の寄宿舎に入れられる。「自分の世界観に対する抵抗を抑えるために、ヒューマニストたちは意識的に活動している」ということを信じられなければ、あなたは致命的な愚か者である。無意識に行動しているのはヒューマニストではなく、ファンダメンタリストである。
1985年、私はゲイリー・デマーを雇って、原稿を書かせた。この原稿は、後に『大学生活を生き残るために:苛烈な学問的戦闘を戦い抜くための完全マニュアル(Surviving
College Successfully: A Complete Manual for the Rigors of Academic Combat
(1988))』という本になった。 1993年、私はついに1975年に書いた原稿『政治的に不正な:両親と学生のための大学サバイバルマニュアル(Politically
Incorrect: A College Survival Manual for Parents and Students)』を完成した。1975年に初版本を出してくれるクリスチャンの出版社はなかった。十分に霊的とは言えず、明確な市場があるわけでもなく、「通常のクリスチャン生活」とは無関係な内容だと判断されたからである。若干の関心を示した会社もあったが、扱いはひどかった。その会社は、私の原稿を、学士号を取るのに7年かかったがついに卒業できなかった男に渡し、書き直しを命じた。これこそが、ファンダメンタリストの世界だった(今でもそうだ)。
私とR・J・ラッシュドゥーニーは、キリスト教再建主義として知られる運動の創始者である(Gary North and Gary DeMar, Christian
Reconstruction: What It Is, What It Isn’t (Tyler, Texas: Institute for
Christian Economics, 1991).)。キリスト教再建主義は、ヒューマニズムの、知的・学的・文化的な代替物を提供する。我々は意識的に、人々の心を獲得するために戦っている。単に心だけではなく、生涯にわたる献身を求めている。我々は学者である。私が言いたいのは「ディスペンセーショナリストは学者ではない」ということである。――つまり、「彼らはディスペンセーショナリストの立場に立って学問をしていない」ということである。
ディスペンセーショナリズムの学問:永遠のミッシング・リンク
ディスペンセーショナリストが聖書研究のある狭い分野において学問的業績を残すことは可能であるし、また実際そうである。しかし、ディスペンセーショナリストとしての自覚をもってそうしている人はめったにいない。彼らは、聖書言語やそれに関係する技術的分野に関しては、多くの業績を残しているかもしれない。だが、いざ学問として行うとなると、それらの作業を明確にディスペンセーショナリズムの立場から行うことはめったにないのである。今日、多様なディスペンセーショナル神学を明確化したり、防御したりする人々はほとんどいない。ディスペンセーショナリズムの古典的な著作は、最も新しいものでも1世代の歴史を持ち、絶版になりつつある。
これはけっして偶然ではなく、時間と法に関する特定の見解の産物である。1990年代にディスペンセーショナリズムは、知的な領域において麻痺状態に陥った。本書は、なぜそのようになったのか、また、どのようにしてそうなったのかについて記している。ここで証明するつもりはないが、私の確信では、この知的麻痺はあと20年の間にあらゆる分野に広がるだろう。今日のディスペンセーショナリズム陣営の知的指導者たちは、このような麻痺を回避すべく、伝統的なディスペンセーショナリズムの分類を再考し、システムを今日的意義のあるものに変える必要がある。私は、これを行うには、ディスペンセーショナリズムを一度スクラップし、新しいものに変えなければならないと考えている。その新しく変えられたものは、名前はディスペンセーショナリズムかもしれないが、実体はもはやディスペンセーショナリズムではなく、様々なディスペンセーショナリズムの神学校の創設者が多くの犠牲を払って守ろうとしたすべての神学的な特徴を廃棄しているだろう。本書で示すように、このような廃棄はすでに始まっている。さらに、その廃棄の過程は、今、最終段階に入っている。これは、1985年以来ディスペンセーショナリズムの指導者たちが全力を尽くして献金者たちから隠そうとしてきた「汚い小さな秘密」である。
犠牲の小羊の沈黙
この離反は、1945年に始まった。この年に、当時アメリカの主要な旧約学者であったO・T・アリスが『預言と教会(Prophecy
and the Church)』を書いた。この本において著者は、ディスペンセーショナリズムの終末論の要点を一つ一つ、冷厳かつ徹底的に批判した。ディスペンセーショナリズムの学者たちは、アリスの批判に対して致命的な戦略を採用した。つまり、沈黙である。彼らは「〜のふりをしよう」という遊びをした。「我々の学生たちはこの本をけっして読まず、我々の支持者はこの本のうわさを聞かず、我々の批評家たちは我々の防衛戦略の性質をけっして指摘しない」と信じるふりをしたのである。
40年たっても、彼らは未だにこの戦略を採用している。ディスペンセーショナリズムに対する最もうるさい批評家は、疑いもなく、キリスト教再建主義者である。我々の法律・未来観であるセオノミーとポスト・ミレは、ディスペンセーショナリズムのアンチテーゼである。ディスペンセーショナリズムが繁栄するところでは、キリスト教再建主義のビジョンと目標は人気がない。そのため、私は1980年代の初期に、私の全財産を費やしても、ディスペンセーション神学のあらゆる面に対して書面で反論しようと決意したのである。
1984年に私は、「その最大の危機の時代に、ディスペンセーショナリズムの埋葬に融資した男」としてキリスト教史に自分の名前を刻むことを願った。制度面で、ディスペンセーショナリズムは白昼に自殺を企てている。
なぜこのように判断したかと言えば、まずディスペンセーショナリズムは、この時代において、組織神学をまったく作り出せないからである。また、O・T・アリスの書面での批評(1945年)に対して今日にいたるまでまったく応答できないからである。さらに、教育の分野においてすら、ヒューマニズムに代わる学問を提示できないからである。そして何よりも、妊娠中絶という議論を招く問題に関して、恐れを抱いた神学校が沈黙を保っているからである。ロウ対ウェードはダラス市で始まった事案であったが、ダラス神学校は「3匹のサル」法――すなわち、悪に目を閉ざし、悪に耳を閉ざし、警告を発しない――を採用した。1973年にダラス神学校は、沈黙を保つことによって、倫理の分野において自らの生命を絶った。沈黙を保った他のすべての神学校も、同様に命を絶った。これは、すなわち神学校のほとんどが同じことをしたという意味である。
福音主義はたとえ大量殺人を目の当たりにしても、それを非難しない。それゆえ、福音主義は倫理的に破産している。福音主義はヒューマニズムの沈黙のパートナーになった。ヒューマニズムがその避けられない崩壊の道を辿るときに、自分の道連れとして、福音主義も滅びの穴に引きずり込むだろう。ディスペンセーショナリズムは、福音主義の最大教派である。それゆえにこそ、私は、ディスペンセーショナリズムに代わる教えに融資することを決心したのである。私は、2種類の戦略に融資してきた。つまり、肯定的戦略と否定的戦略である。「代替案もなしに敵を打ち負かすことはできない。」
1984年以来、私が出版資金を提供してきた反ディスペンセーショナリズムの本は次のとおりである。『あなたの先生が質問されたくないと思っている聖書に関する75の問題(75
Bible Questions Your Instructors Pray You Won’t Ask)』(ゲイリー・ノース著、1984年)。『楽園の回復:聖書が教える統治神学(Paradise
Restored: A Biblical Theology of Dominion)』(デイビッド・チルトン著、1985年)。『復讐の日々:黙示録講解(Days
of Vengeance: An Exposition of the Book of Revelation)』(同、1987年)、『大患難(The Great
Tribulation)』(同、1987年)。続いてグレッグ・バーンセンとケネス・ジェントリーの『分裂した家:ディスペンセーショナル神学の崩壊(House
Divided: The Break-Up of Dispensational Theology)』(1989年)。これは、(当時)ダラス神学校教授Hウェイン・ハウスと彼の調査助手トマス・D・アイスに対する圧倒的な応答である(この直後ハウスはダラス神学校を辞めた)。そして、ジェントリ−の『黙示録の獣(The
Beast of Revelation)』(1989年)、『大宣教命令の偉大さ(The Greatness of the Great Commission)』(1990年)、及び、大部の注解書『彼は統治しなければならない:ポスト・ミレ終末論(He
Shall Have Dominion: A Postmillennial Eschatology)』(1992年)。この時期に出版されたのは、ゲイリー・デマーとピーター・ライトハートの『キリスト教の縮小:デイブ・ハントへの聖書的応答(The
Reduction of Christianity: A Biblical Response to Dave Hunt)』(1988年)、デマーの『キリスト教再建主義に関するディベート(The
Debate Over Christian Reconstruction)』(1988年)、『終末の熱狂(Last Days Madness)』(1991年。筆者以外の出版者による)、『千年王国主義と社会理論(Millennialism
and Social Theory)』(1990年)。特に『あなたが繁栄するために:契約による支配(That You May Prosper:
Dominion By Covenant)』(ダラス神学校で神学修士号を取ったレイ・サットン著、1987年)は重要である。サットン博士は現在、フィラデルフィア神学校校長、改革派監督教会教育主任である。この反論に対して、ジョン・ウォルヴァードやロバート・ライトナーが時折小冊子を出した外は、ダラス神学校は終始沈黙を保った。
キリスト教再建主義に対して詳細な応答を行ったディスペンセーショナリストは、ハウスとアイスの2人しかいない。(デイブ・ハントが我々に対して数ページ以上の反論を書いたことは一度もなかった。ハル・リンゼイは、ディスペンセーショナリストではない神学者をすべて反ユダヤ主義者と決め付けようとしたが、この失敗した試みはディスペンセーショナリズムを代表しているのでも、学問を代表しているのでもない(Hal
Lindsey, The Road to Holocaust (New York: Bantam, 1989.)。 これに対する応答としては、Gary
DeMar and Peter Leithart, The Legacy of Hatred Continues: A Response to Hal
Lindsey’s The Road to Holocaust (Tyler, TX: Institute for Christian Economics,
1989)を参照せよ)) ハウス博士は、ダラス神学校を辞職して以来、セオノミーやキリスト教再建主義に対して一切印刷物で反論していない。バーンセン博士が公衆の面前で130ページ以上にわたって彼に対して行った応答を考慮すれば、これは驚くべきことではない。その結果、残るはアイス師のみである。彼は、自分の聖書教会(テキサス州オースティン)から月刊ニュースレターを二三部出している。キリスト教再建主義によるディスペンセーショナリズムに対する数多くの批判に関して、ダラス神学校の神学者たちが一貫して沈黙を貫いているため、ディスペンセーショナリズムの非公式広報担当者の役割は、競争相手不在のゆえに、アイス師に移されている。つまり、今や、伝統的なディスペンセーショナリズムのシステム全体の防衛は、トミー・アイスの肩にかかっているということなのである。これは、伝統的なディスペンセーショナリズムにとっては不吉な徴である。
1945年に、このだんまり戦術がうまく機能したのは、平信徒がアリスの『預言と教会』のような学問的な本に関心を払わなかったからである。ディスペンセーショナリストたちはまだ、自らの心理学的・教会的ゲットーの中で安全に暮らすことができると信じていた。しかし、1965年以降アメリカ文化が道徳的に衰退すると、このような期待はまったくばからしく思えるようになった。社会がどのように機能しているかに関してキリスト教及び保守的な見解を弁護する機会が増えるにつれて、平信徒のディスペンセーショナリストたちは、次第にゲットーから政治闘争の場に引きずり出されるようになった。すると、ディスペンセーショナリズムの陣営が、活動的なグループと悲観論者のグループの2つに分かれ、すでに繰り返して述べたように、活動的な人々は、実践的なポスト・ミレ論者に変わっていったのである。彼らは負けるために戦おうなどとは考えない。ディスペンセーショナリズムの内部分裂は、『統治神学:祝福?それとも、呪い?(Dominion
Theology: Blessing or Curse?)』(1988年)を著すために短期的な組まれ(結局失敗し)たタッグチームの中にも見られる。ハウス博士は、キリスト教活動主義の合法性をめぐってデイブ・ハントと公開ディベートしたクリスチャン活動家である。アイス師は、自覚的な敬虔主義者であり、文化的な隠遁主義者である。1988年に、彼はハントとチームを組んで、ゲイリー・デマーと筆者のチームと同じテーマについて、ディベートを行った。
1965年以降
ディスペンセーショナリズムの陣営が「社会活動派と敬虔主義的消極派」に分裂した1965年以降、人々は、神学者のだんまり戦術を問題視するようになった。ディスペンセーショナリストが社会と政治の分野において積極的に活動するようになると、彼らの多くは、自分たちの活動を正当化する神学的な根拠を求め始めたが、しかし、ディスペンセーショナリズムの中にはそれを見出すことができなかった。そのようなものは、キリスト教再建主義か解放の神学のうちにしかない。しかし、解放の神学はリベラルであるか、もしくは、急進的である。1989年から1991年にかけて共産主義の失敗が明らかになると、それはいかなる場所においても多くの支持を受けられなくなってしまった。まして、保守的なディスペンセーショナリズムの陣営において支持などまったく期待できなかった。これこそ、活動派のディスペンセーショナリストが、キリスト教再建主義の神学の結論と、その内容の多くを採用し始めた理由である。これこそ、ディスペンセーショナリズムの学者が印刷物において我々に応答する必要がある理由である:我々セオノミストは、彼らの中で最も優秀な人々を獲得しつつある。しかし、指導者たちは、我々に挑戦することを恐れている。なぜならば、我々の首尾一貫した神学的裏づけのある社会活動主義を公然と攻撃すると、自らの本当の姿を人々にさらけ出すことになるからである。つまり、「キリスト教は、文化と政治の分野においてヒューマニズムに敗北する。これは歴史的必然である」という教えを首尾一貫して主張しているということがばれてしまうのである。
私はこのことをできるだけ平易に表現しよう。すなわち、神学者たちのこのような沈黙はもはや自殺行為以外の何物でもない、と。それは犠牲の小羊の沈黙である。ヒューマニズムの面前での沈黙、キリスト教再建主義の面前での沈黙、6日創造説とダーウィン主義の面前での沈黙、公教育の面前での沈黙、そして何よりも、合法的堕胎の面前での沈黙は、生き残りをかけた運動の戦術ではない。それは、歴史の現実と制限からの超自然的な解放を絶えず期待し、祈り求める運動の戦術である。このような解放は永遠に訪れない。待てど暮らせど解放の時が訪れないため、麻痺が広がっている。
結論
ディスペンセーション神学は、倫理において麻痺状態を作り出している。倫理的麻痺は、知的麻痺を引き起こし、知的麻痺は制度的麻痺を引き起こしている。制度的な麻痺は、消耗の過程を通じて、ついには消滅にいたる。ディスペンセーショナリズムは、今や最終の段階にある。我々は、最終世代の到来を目撃しつつある。最終世代と言ってもイエス・キリストの教会のそれではなく、ディスペンセーショナリズムのそれである。
以下の各章において、私の主張を証明するつもりである。どうか読み続けて欲しい。