生徒の非行
R・J・ラッシュドゥーニー
間違った前提から出発すると、最初から最後まで問題を誤解し、対応を誤り、問題を解決するどころか、かえってこじれらせてしまうものである。今日、公立学校が非行に関してますますお手上げの状態になっているのは、間違った前提から出発し、その結果、直面している問題の性質を把握することに失敗したからである。
1960年代の終わりに、スタンフォード大学医学部心理学科暴力委員会が現代世界における暴力の問題について調査を行った。「暴力と生存競争」という題で行われたシンポジウムの席上では、暴力の原因が罪にあると述べた人は一人もいなかった。その代わりに、パネリストたちは進化論の観点から「暴力とは、環境に適応するために人間が払ってきた一種の努力である」と述べた。事実、社会的暴力の「重要な」原因の一つとして彼らが挙げたのは、「婚外交渉に対する」あらゆる制限と「刑罰」であった。換言すれば、キリスト教の倫理基準こそが暴力を促進するというのだ! 1
非行と暴力の原因を環境に求めたり、進化論に基づいて捉えたりするこのような傾向は、今日一般的である。ある公立学校の校長(クリスチャン)は私に、すべての非行の原因は環境か遺伝のいずれかにあると言った。私はその意見に反対し、「もっとも堕落した家庭に育ち、子供のころや十代に繰り返し家族のメンバーや訪問客にレイプされたある少女が回心して幸いなクリスチャンになり、家庭を持つことができた」という実例を紹介した。すると彼は、社会的な問題に神学(信仰)を持ち込むことは「不正」だと言い張った。その言葉と力が生活のあらゆる領域を支配しない神など神ではないのである。
あらゆる年代において、非行の根底にあるすべての問題は、罪である。聖書は、罪を悔い改めない人を「除名」せよ、と教会に命じている。
・・・あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。・・・(1コリント5:6-7)
パウロは、ここで、神のもとにおいて、非行者――つまり「罪人」――を除名すべきだと述べている。この言葉はあらゆるキリスト教の施設――教会だけではなく学校にも――適用される。これは旧約聖書と家族に深く根ざた命令であり、以前ほど実行されていないが、正統派ユダヤ教において今でも習慣として守られている。メンバーが背教した場合、死人の儀式が行われ、悔い改めるまで、実質的に、彼は死人とみなされる。
今日あまりにも多くのクリスチャンスクールが機能不全に陥っているのは、この聖書の命令に従わなかったからである。悔い改めない非行者を追い出すことに失敗したため、子供たち全体が堕落した。さらに、聖書における悔い改めの意味を理解することが重要である。ギリシャ語において悔い改めを意味する言葉はmetanoiaだ。これは、向きを変えること、生活・方向・考え方・行動の変化を意味する。聖書における悔い改めとは、単に「悔い改めます」とか「ごめんなさい」と言うことではなく、罪や不信仰から信仰と義への、生活の全体的変化を意味するのである。2
クリスチャンスクールにおける指導は、この知識に基づいて、信仰と義と奉仕の生活を導くことにある。クリスチャンスクールでは、未信者の子供にも正当な居場所が与えられている。しかし、非行生徒にはいかなる居場所も与えられていない。その生徒がどのような家庭から出ているかは問題ではない。非行児童が教会の役員や牧師、ときにはクリスチャンスクールの教師の子弟であることがある。どのような場合であっても、学校が健全でありつづけるためには、問題にしっかりと対処すべきであり、場合によっては退学処分も辞さぬ覚悟が必要である。
親がもっともよく口にする苦情のセリフは「それは先生の側の問題です。先生が私の子供を理解してくれなかったからなのです。」である。このような苦情には厳正に対処する必要がある。第一に、完全な教師など存在しない。それゆえ、子供を完璧に扱うことのできる教師など存在しない。これは的外れな苦情である。生徒には、教室の中において教師に服従する責任がある。教師がどのような人であるかは関係ない。また、両親には、子供に対して教師に服従するよう命じる責任がある。第二に、子供を「理解する」責任は教師にはない。教師の責任は子供を「教える」ことである。教師の中で私を理解してくれた人はほとんどいなかった。これは時に私にとって苦痛の種であったが、しかし、彼らはみな私を「教えて」くれた。それによって私は利益を受けた。
さらに、子供を「守る」ことと、子供を「助ける」ことには違いがあるということを両親にしっかりと(しかし、穏やかに)伝える必要がある。しばしば、子供を守る最良の手段は懲らしめである。子供を助ける最良の手段は「世の中をおまえの基準に従わせようとするのではなく、おまえが神の基準に従わねばならない」ということを子供に示すことである。子供の罪を聖書的に処理しないと、学校も子供も父兄もみなが苦しむことになる。優秀な両親から生まれ、非常に高いIQを持っているのに、現在収入が乏しいため、奥さんと共働きでなければやっていけないある若者がいる。彼は成績不良により大学を退学した。キリスト教界において卓越した地位にあった彼の両親は、自分の息子を頑固に守り、彼の真実の姿を直視しようとしなかった。クリスチャンスクールの教師も同じであった。息子の問題を正しく扱おうとした人は、校長や牧師から見捨てられた。その結果、この生徒の生活は荒れ、両親は苦しみ、教師らは長年にわたり悲惨な状況を強いられた。子供の罪を悪化させた責任は、両親と教師、校長、牧師にあった。みなが主に対して罪を犯した。一人の悪童によって学習を妨害された子供たちもその被害者であった。「罪を罪として扱わないことは、罪である」。罪を許容し、それを「活動過多」などと呼ぶことは罪である。子供の罪によって、学校職員を罪の中に引きずり込んではならない。
主の祝福は、罪人にではなく、忠実な者に下る。人間を堕落と悲惨に陥れたのは、アダムの罪である。罪は依然として我々の根本的な問題である。クリスチャンスクールは、罪の問題を処理する際に、自分自身が非行者になってはならない。
生徒の罪を扱うことができない一番の原因は、第一に、経済的な損失への恐れである。経済的な損失は実際に起こりうる。しかし、真の問題は優先順位にある。どちらのほうが重要であろうか。経済的な見返りか、それとも、主の祝福と学校の発展か? しかし、最終的には、罪を許容する学校は経済的にも損失をこうむるのである。
第二に、両親に対する恐れは、通常、彼らが社会的に高い地位にある場合に起こる。もし我々がそのような恐れに「支配」されているならば、学校は彼らに支配され、我々は、問題児とその両親に対して権威を失うことになるだろう。
第三の理由は、道徳的な臆病である。困難な問題の処理には苦痛が伴うものである。しかし、道徳的な臆病は、さらに大きな苦痛を引き起こすだろう。
罪は人間の基本的な問題である。我々は、自分自身の罪や生活のあらゆる領域における罪の問題を避けて通ることはできない。クリスチャンスクールは、それに対処する準備を常に整えておかねばならない。
1. Frederick W. Ilfeld, Jr., M.D., “Environmental Theories of Violence,” in David N. Daniels, M. D., Marshall F. Gilula, M.D., Frank M. Ochberg, M.D., editors: Violence and the Struggle for Existence, p. 88. Boston, Massachusetts: Little, Brown, 1970.
2. 参照・William Douglas Chamberlain: The Meaning of Repentance. Philadelphia, Pennsylvania: The Westminster Press, 1943.
Rousas John Rushdoony: The Philosophy of the Christian Curriculum, pp.124-127. Vallecito, California: Ross House Books, 1985. より。