正しい教育の必要性
情報を提供するだけならだれでもできる。
学校に通う意味があるのは、情報を整理して提供する先人から学ぶためである。
それゆえ、教師の使命とは、情報を頭の中で整理し、秩序立て、それを初心者にわかりやすく提供することにある。
教師の賜物は、誰にでも与えられているわけではない。
「体系だてる」能力が与えられている人しか教師になってはならない。
聖書の教師に関しては、聖書全体についての知識が不可欠である。
聖書そのものをまんべんなく読み込んでいなければ、全体を把握できない。
そして、大切な部分をピックアップし、全体を通じて示されている神の御心を読み解けなければならない。
その全体を通じて示されている神の御心は、歴史的に研究されてきた。
それが、神学である。
そのため、教師に召された人は、神学の知識がなければならない。
神学について無知でよいとする人は、自分で「先人の英知の蓄積」を拒否するので、無駄な努力を積み重ねる。
このような教師についた初学者は不幸である。
受験英語については、教育の方法がかなり研究され、整理されている。
予備校や塾に行く利益は、受験に出る項目を整理整頓してくれる教師から学べることにある。
つまり、最小の努力で得点できる能力を養成してくれるから金を払ってそういうところに行く。
武道やお茶、あらゆる習い事についても、教室に通うのは、その道の専門家に出会えるからである。
情報を手に入れるだけなら本を読めばよい。
キリスト教に関する知識を手に入れるなら、本やネットで十分。
教師が必要なのは、その知識を体系的に説明するためである。
だから、われわれは、牧師や教師を必要とする。
筋道を示すという貴重な使命が彼らにはある。
逆に言えば、正しい筋道を示すことができないような教師のところに行ってはならないということだ。
聖書の一部だけを強調して、全体と調和しない教えを唱える教師のところに行っても無駄である。いや有害である。
異端を意味するheresyの語源となるギリシャ語の意味は「選択」である。
つまり、異端とは「自分が好む教えを選択する人」という意味である。
聖書から学ぶのではなく、聖書を使って自分の作り出した教えを唱えるのである。
だから、そういう人々は、先人の知識を軽んじ、積み上げられた神学的遺産を軽視する。
アルミニウス主義やディスペンセーショナリズムを唱える人々は、聖書に無数に存在する「予定」の教えを無視する。
今日のキリスト教は、このような異端によって変質してしまったので、聖書的な教えに対して敵対的なのである。
それは、ヒューマニズム教キリスト版でしかない。
聖書に関する正統的な教えは、極端な少数派になってしまった。
教会は、カルヴァン主義の5特質を一から学びなおす必要がある。
http://www.millnm.net/cgi-bin/page.cgi?url=../qanda/calvnsm5.htm
2016年3月21日
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