人間による判決を受けることは、非常に小さなことです
1.
うつ病になったある有名な芸人が「僕なんてダメな人間だ」と言ったのでびっくりした。
「普段明るく振る舞っている彼が、こんな否定的な言葉を吐くとは」と思った。
弱気な言葉や気持ちは、「心の隙」なのである。
サタンにつけ込む隙を与えているのである。
このような隙だらけの人が心の病に陥るのも当然なのである。
心の病に陥らない人に共通するのは「自己肯定の強い意志」である。
人間、誰しも、弱点はある。
探せばきりがないくらい、ダメな部分がある。
だから、全員がサタンにやられて、心を支配され、病気にさせられる危険性がある。
心の病気になるかならないかは、否定的な思いを吹き込む悪霊に対して「うるさい!下がれ!」と言えるかどうかである。
もし自分を支配し、思いのままに動かそうとする悪霊の存在を感じたならば、強気になることである。
強気になれないほど圧倒的ならば、環境を変えることである。
「逃げるが勝ち」である。
四六時中自分に向かって「お前はダメな奴だ」という人が近くにいるならば、離れることである。
環境を変えて、自分を取り戻し、努力を開始できる状況を作り出すべきである。
だから、いじめがひどい学校にいるならば、転校すべきである。
転校しても同じ状況になるならば、自宅で学習すべきである。
自宅学習で大検の資格を取ればいい。
「様々な人がいる環境で生き残る術を身につける必要がある」というのは、大人が勝手に作った価値観である。
ある飛び抜けた才能の人は、凡人と比べて一足飛びにいろんなことを体得できるので、周囲から「浮く」ことが多い。
友人やクラスメートの話題があまりにも幼稚すぎると感じる。
そういう場合は、学校なんて行く必要はないのである。
学校は勉強を修めるための「道具」に過ぎない。
同じ成果を得られるならば、どんな手段でもいいのである。
今、国会でモリカケをやっている馬鹿議員を見ればわかる。
東大卒が多い。
学校を優秀な成績で卒業することのどこに意味があるのか、と疑いたくなる。
ある集団が自分にとって無意味ならば、そこから出て自分で本を読んで技術を学び、自活する方向に舵を切るべきだ。
プログラミングの技術、とくにJavaScriptやJavaなどの主要言語を身につければ、就職先はいくらでもある。
アメリカでは50万件の求人があり、月収100万円である。
これからコンピュータ技術は無用になることはないので、将来性もある。
その他、資格試験を通れば、就職に有利である。
「既存の社会システムでしか生きられない」と考えるならば、「あまりにも愚か」としか言いようがない。
自分で会社を興して仕事を作ってもいい。
生き残る道は無数にある。
こういう風に「勝ち気」になれば、心の隙はできない。
マイナスな点だけを数えて「自分はダメだ」と落ち込む人は、サタンの餌食である。
終いには自殺願望すら植え付けられるだろう。
もし社会的なしがらみがあるならば、全部切り捨てたらいい。
自殺するよりははるかにいいから。
恐れると、悪霊は面白がっていろんな現象を起こすだろう。
部屋の中のものが勝手に移動したり、ラップ音が鳴ったり、お化けが出たり。
つまらないことに怖がる人には、つまらないことを放り込んでくる。
怖がらなくなれば「面白くない」と言って悪霊はやってこない。
世間体を気にする人には、悪霊は「笑い声」や「嘲笑」「噂話」を利用する。
そういう人は、人がひそひそ話す声も気になってしかたがない。
世間に頼ろうとするから、悪霊はこれらを利用して、心を占領するのである。
サタンの目標は、万人の奴隷化である。
つまらないものにすべての人を縛り付けて、自分のために利用し、最後に滅ぼそうとしている。
2.
人が怖いなら、できるだけ人の前に出て、自信がつく体験を積み重ねること。
乗り越えて自信をつけるしか解放はない。
周囲の目が気になってしかたがない人がいた。
電話での営業の仕事に応募して乗り越えた。
会社の一室で電話の前に座り、名簿を見ながら、電話をかける。
そして、あるサービスに勧誘する。
会社の周りの人が監視する中で行う。
周囲の目を気にしていては仕事にならないので、なりふり構わなくなる。
そのうち、人の目が気にならなくなったという。
環境を変えることによって、心を麻痺させ、物事に動じなくなる精神を養うことに成功した例である。
3.
私は、10年間、何百人もの生徒の前で講義していたので、心が麻痺している。
最初は怖かったが、すぐに慣れた。
人にどう見られても気にしない。
ネットに何を書かれるかに敏感な人がいるが、実害がなければどうでもいい。
「お前にそんな資格があるのか」と言われても「資格なんてどうでもいい」と考えるぐらいではないと、何もできない。
ストーカー呼ばわりする人もいたが、実際に誰に対しても一度もストーカーしたことがないので、どうでもいい。
そもそも私は人に対して執着心がまるでないタイプである。
だいたい、人を追いかけても無駄である。
神との関係が好転しない限り、対人関係は改善されないと知っているから。
実際に犯罪の嫌疑をかけられて逮捕されそうになったらさすがに動くが、単なる噂話にいちいち反応していたら、貴重な時間を無駄にするので無視する。
将来的に自分に悪評が残っても、真実の神は見ておられるので、どうでもいい。
問題は、御国においてどういう報酬を得られるか、である。
御国に行ったときに、神の裁きの前に立って、どう評価されるかである。
しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。(1コリント4・3)
2019年3月3日
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