(1)
http://www.youtube.com/watch?v=8CeIrWGJ6tk
ここで、水島社長は、西洋近代に対する問題提起をしている。
残念ながら、日本の右翼に共通する「前キリスト教時代」への回帰志向がある点。
「木を大切にするのが日本、キリスト教は木を伐採して利用するだけ」のような考えは明らかに間違いである。
日本人を反キリストに向かわせるようなことになればまことに残念。
どんなに立派な運動であっても、キリストの王国に逆らうならば、排除されるしかない。
最近では、ブロックされ、書き込みができなくなった。
まっとうな反論も許さず、歴史的に正当な議論も封殺するようでは御先が見える。
大学に入って、哲学の授業で読まされた宮川透先生の『近代の超克』という著書において、あるべき近代文明批評を提供しているので推薦する。
復古主義ではだめ。
近代を咀嚼し、飲み込んで、なおかつそれを批判できなければならない。
近代を知らずに近代を批判するな。
「キリスト教はだめだ」はいい。
しかし、どこがダメなのかを明らかにしたまえ。
「木を…」は、聖書的キリスト教が言っていないことなので、批判にならない。
長い間、町を包囲して、これを攻め取ろうとするとき、斧をふるって、そこの木を切り倒してはならない。その木から取って食べるのはよいが、切り倒してはならない。まさか野の木が包囲から逃げ出す人間でもあるまい。(申命記20・19)
聖書には、生産は軍事に優先するという原則がある。
軍事を生産に優先するならば、いくら大帝国になっても、自然破壊によってその国は滅んでしまう。
木と共存する文化を聖書は提唱している。
ラッシュドゥーニーが、手紙の中で、「大戦中に収容所に入れられた日系アメリカ人が収容所の中で木を植え育てはじめたのを見て感銘を受けた」と言っていた。
日本人は、律法を守ってきた。
生活の中に律法がある。
聖書の戒め「落し物を着服してはならない」も実践してきた。
われわれが幼いころにしつけの中で教え込まれた倫理は、聖書的である。
キリスト教国の人間でも、財布が落ちていたら着服するのが常である。
津波に流された金庫がそのまま持ち主のもとに届いたことに世界は驚いた。
日本人こそが聖書の倫理を守ってきた民族であるがゆえに、世界のリーダーとなるべきなのだ。
サウジアラビアでは、日本の学校を見習って、学校で生徒に掃除をさせるようになった。
http://www.youtube.com/watch?v=OMn_qQx1TcA
(2)
近代を超克するのは、聖書律法である。
それが大学時代に私が達した結論だった。
聖書律法に関する本を探していたときに、R・J・ラッシュドゥーニーの著書『聖書法綱要』と出会った。
それは、聖書律法に関する解説書であった。単なる個別律法の解説本ではなく、聖書律法を貫く世界観について教えていた。
ラッシュドゥーニーの基本は、ヴァン・ティルの前提主義にある。
ヴァン・ティルは、近代の間違いは、その認識論の誤謬にあると見た。
デカルトからカントに至る「我思うゆえに我あり」との人間中心の認識論こそが問題だと。
古代から中世、近代に至る西洋の哲学の流れは、聖書的キリスト教とギリシア思想の対立であった。
聖書的キリスト教は人間理性に信頼しない。
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。(箴言3・5)
啓示と理性が対立したら、啓示を選択せよと命令する。
しかし、ギリシア・ヒューマニズムは、理性に信頼する。
ローマ・カトリックは、自然の知識は理性に頼り、神については啓示に頼るという棲み分けを行った。
啓示は補足としての役割を与えられた。
この理性と啓示のバランスは、近代になるにつれて、次第に理性の割合が大きくなり、ついに啓示の分野にまで浸食した。
決定的だったのがデカルトである。
「我思うゆえに我あり」の原理は、「知識の土台は、人間理性にある」と啓示に対する死刑宣告だった。
つまり、
心を尽くして自分に拠り頼め。聖書の啓示にたよるな。
という教えである。
近代になって、人間は完全に神を不要とみなした。
啓示は、必要に応じて「なぐさめのために」利用するべきものに貶められた。
人間の暴走が始まった。
この近代の原理を実際の世界に徹底して適用したのが、共産主義革命である。
政治の世界も経済もすべて「自分はどう思うのか」が基準となった。
結局、自滅した。
なぜならば、超越的な倫理も知識もないので、むき出しの欲望が支配するようになったからだ。
このことは、今の中国を見ればわかる。
際限のない自然破壊。客観的・普遍的倫理がないので、賄賂が横行し、そのためには殺人だって許される。
13億の中国人は、「倫理や原則のない金銭欲のみで行動する野獣」と化した。
ロシア人も長年の共産主義の支配の中で「原則無し人間」になった。
共産主義は、近代主義の純粋型であり、神と律法からの極限的乖離を生み出した。
(3)
近代を乗り越えるのは、「反キリスト教」でも「前キリスト教」でもない。
それをやると、ルネサンスの時代に逆戻り。
あれは、「キリスト教導入前の古代ヨーロッパに対する回帰」運動であった。
だから、チャンネル桜が同じようにキリスト教と対立し、それ以前に帰ることを求めるならば、ルネサンスから共産主義革命に至る近代ヨーロッパがたどった間違いを繰り返すことになる。
われわれが追求すべきは、キリスト教を排除することではなく、キリスト教を「聖書原典への忠実」に戻すことでなければならない。
人間理性を基本とし、啓示を補完役として持つのではなく、啓示を基本とし、人間理性を補完役として持つべきだ。
異邦人にキリスト教が伝播したときに、この課題が意識されなかったために、ギリシア・ヒューマニズムがキリスト教に混入した。
それゆえ、ヨーロッパキリスト教は、2つの相反する原理が並立する二元構造になった。
最初から、矛盾した体制だった。
ヴァン・ティルはこの問題を「啓示は前提である」と唱えることによって克服した。
「聖書啓示は、疑ってはならないもの」であり、「問答無用のものとして持つべきもの」である。
いかにエデンの園の中央の木の実が「食べるのによさそう」(理性)であっても、神が「食べてはならない」と命令されたら(啓示)、食べてはならないのだ。
この「前提主義」こそが、世界が回帰しなければならない土台である。
(4)
日本文明は、おそらくユダヤ系クリスチャンである秦氏によって作られたがゆえに、「律法を土台とする」文明だったのだろう。
西洋のキリスト教、つまり、ヤペテ系キリスト教ではなく、セム系キリスト教に回帰すべきなのだ。
セム系キリスト教は、紀元70年にあった審判の際に、2つに分かれた。
人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。(マタイ25・31-41)
紀元70年にこの審判が、ユダヤ人(と異邦人)に下った。
羊系ユダヤ人は、救われて、エルサレム包囲の際に御使いの導きによって城壁の外に出て、ペレアに移った。そして、その後、東に向かった。
山羊系ユダヤ人は、滅ぼされ、エルサレム城内で一説によると300万人虐殺された。残りの人々も、バル・コクバの乱後、世界に散らされた。
使徒の弟子たちの正統的キリスト教を信じた羊系ユダヤ人は、おそらく秦氏(秦とはローマを意味する大秦に由来)という形で日本に来た。
秦氏は、日本において神道を作り、贖罪信仰を今日まで継承している。
この事実は、もし伊勢神宮のご神体が十字架型の心御柱であり、内宮に「我は有りて在る者なり」の板がかかげられていることが事実として判明すれば、明らかになるだろう。
日本人が本当のセム系クリスチャン(羊系ユダヤ人)であり、キリスト教の本流であることが明らかになる時代が来るのではないか。
本当の近代の超克は日本が世界のリーダーになるときに達成されるかもしれない。