クリスチャンの中にも、基準を自然法や自然秩序に置く人がいる。
「セオノミー(神の法)を社会に適用すべきだ、という考え方は危険だ」と言って私を裁判にかけた教会のように。
彼らは「再生されていない人間の理性に信頼すべきだ」という。
しかし、聖書では「再生されていない人間の理性は汚れている」と述べている。
きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。(テトス1・15)
「生まれながらの人間」は、全的に堕落しているのである。
あらゆる部分が病気になる可能性があるように、人間の一部たりとも堕落の影響を免れていない。
自然法や実定法(*)を支持する人々には、このような全人的堕落の認識が欠けているのである。
したがって、このようなクリスチャンは、実はクリスチャンではなく、ローマ・カトリックかカント主義者である。
「自然は完璧だ。人間が関わるとダメになる」という自然主義は、聖書の「人間の堕落とともに、自然も堕落した」という聖書の教えを否定する。
人の手が加わっていない原生林を愛し、伐採を拒否する人々は、かえって森林を破壊している。
割り箸を拒否するような人も同じである。
割り箸は間伐材で作るので、自然破壊に当たらない。
森林は人間の手入れを必要としている。
ヌーディスト運動も同じように、自然主義である。
人間は裸の状態が自然でよい、という。
しかし、聖書では、堕落前において裸の状態はよかったが、堕落してからは裸は衣服で覆う必要が生じている、と言われている。
堕落後、人間も自然も「神及び神の民による介入」を必要としている。
「ありのまま」「自然のまま」ではダメなのである。
「生まれながらの人間」は異常であり、御怒りを受けるべき存在である。
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(1コリント2・14)
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペ2・3)
「自然理性」を受け入れ、「自然法」を主張する人々は、実質的にノンクリスチャンである。
彼らは別の宗教を信じている。
その上に神の法を拒否するようであれば、完全な異教徒である。
しかし、今の教会は、このような状況にある。
自然理性に頼り、神の法を憎む教会が、同性愛に許容的であるのも当然なのである。
(*)社会に現実に行われている法。人が人為的に定め、または変改・廃棄することのできるもの。