不法を行い続ける「クリスチャン」を待っているのは
Wikipediaに自分に関する項目が設定され、勝手に嘘を書かれているので困りものである。
何度訂正しても誰かが嘘を書き込む。
言っておくけど、いくら誹謗中傷しても、自分が将来入る「火の池」の温度を熱くするだけで、何の効果もない。
三鷹をやめた理由を「長老との人間関係のもつれ」によると書いてあるが、教役者が単なる人間関係のもつれでやめて、その後祝福されることなどありえない。
理由は「別の導きを感じたから」である。
その時は理由がはっきりしなかったが、別のミニストリを始めるべきであると感じていた。
これは、聖書的に言って間違いではない。
パウロは、他の使徒と異なる使命を感じて、別の働きをした。
導きを感じてある集団を離れたことのある人は理解できるだろう。
自分がその集団にいる意味を感じられなくなるのだ。
もう一つ、三鷹の高教会の考え方についていけなかった。
入った当時はそのような雰囲気はなかったが、出るころには、ローマ・カトリックや聖公会のような、人間集団に過剰な権威を与える雰囲気があった。
後にわかったことであるが、牧師がN・T・ライトとフェデラル・ヴィジョンの考えを持っていたためだ。
この2つは、「行為義認」を唱える異端である。根拠については、私の他の文章を読んでほしい。
http://www.millnm.net/qanda4/427ONqEYXcl5Q59142.htm
今は離れて当然だったと考えている。
歴史的、正統的なキリスト教から離れたいかなる集団にも属する責任は私にはない。
それゆえ、今のディスペンセーショナリズムの教会(福音派のほぼ100パーセント)に所属する責任もない。
無千年王国説の改革派の教会に所属する責任もない。
今毎週行っている2、3人のクリスチャンとの礼拝で十分だと考えている。
それから、「妻子もいないのに」教育の問題について論じていることが否定的に記されているが、なぜ「妻子がいない」ということが教育問題を論じる資格を失うのか。
これは、「人を殺したこともないのに」殺人罪について論じてはいけない、という理屈と同じように奇妙。
グレシャム・メイチェンは生涯独身だった。
ジョン・ストットも。
パウロも。
歴史上、独身で終わった教職者は無数にいる。
別に特殊なことではない。
子育てしたことのないパウロが、子供の教育について論じている個所はどう解釈するのか。
父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。(コロサイ3・21)
そしる者…はみな、神の国を相続することができません。(1コリント6・10)
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。(マタイ5・11-12)
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7・22-23)
2016年2月22日
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