人間社会において失敗するとかどうでもいいことである


福音派の教会で牧師補であったが、再建主義のゆえに辞めた。

その際に、あるクリスチャンから「僕が今まで見てきて、一度辞めた牧師は二度と浮上できない」と言われた。

はっきりいってどうでもいい。

福音派で偉くなって何がいいの?

ビリー・グラハム大会の壇上で前のほうの席に座れるから?

ビリー・グラハムはフリーメイソンですよ。フリーメイソンに協力できることの何がいいの?

この「世の中で受け入れられるかどうか」が価値観のトップに来るような牧師は牧師でもなんでもない。

聖書が定義する「失敗」とは「契約違反」である。

組織の中でうまく泳ぐことができなかったとか、事業をやって失敗したとか、大学に落ちたとか、落第したとか、こういう失敗は、聖書において失敗とは呼ばない。

むしろ、聖書ではそれらの失敗が歓迎されている。

なぜならば、「全地に広がり、増えて、従えよ」がテーマだから。

神の御心は、人間が都市を作ることよりも、散って世界の各地を開拓してそこに神的文明を築くことだから。

「組織の中で生き残れるか」のような心配は、バベルの塔の世界である。

人間社会が神になっているから。偶像礼拝だから。

聖書の法体系は、「神が定めた法に従っているか」が基準だが、バベルの塔の法体系は、「既存の組織に利益を与えるか」が基準である。

自分の価値体系や法体系を変えることを偶像礼拝という。

人間にとって本当の失敗とは、十戒をはじめとする神の法に違反することである。

それは避けるべきだ。

人間社会の中でうまく泳ぎ渡れるか、金銭的に成功できるか、出世するか、権力を持てるか、総理大臣になれるか、は、異なる価値体系、法体系の基準であって、われわれの基準ではない。

この基準によって自分の選択をするようなクリスチャンは、必ず挫折する。

神はそのような価値観で生きることをお許しにならない。

本当の価値体系、法体系に引き戻される。

「じゃあ、今属する世俗の組織に対して服従する必要はないのか」との質問が出るかもしれないが、「ノー」である。

なぜか。


「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても」(1ペテロ2・13)

「主のゆえに」であるから。

つまり、神の価値体系、法体系に従うがゆえに、あえて世俗の諸制度に従うのである。

だから、クリスチャンの場合、会社で働いていて組織に従うのは、「出世のために」とか「組織で泳ぎ渡るために」ではない。

「組織を離れたら生きていけない」からではない。

救い主は会社や組織ではない。

クリスチャンにとって救い主はイエス・キリストであり、「神の国とその義を第一にすれば、生活に必要なものはすべて与えられる」のであるから、人間が救い主にはならない。

われわれは「救ってもらうために」会社で働くのではなく、「その会社で仕えなさいとの主の命令に従うがゆえに」働くのである。

私が教会を辞めるときに「ここを出てどこに拾ってもらうのか。行き場所がないだろう」と脅かされたが、これって、「組織を神として拝め」との悪魔的な誘いである。

私の体験から言うと、日本人は、小さなときから人を恐れる教育でしつけられる。

私の家庭はそうではなかったが、一般に日本社会はその「人への恐れ」を養うことによって、統制を取ろうとする。

だから、それが「集団によるいじめ」につながる。村八分である。社会に対する「同調への圧力」がある。

だから、どの社会に入っても大きなプレッシャーがある。

このプレッシャーはどこから来るかというと「人を神として崇める偶像礼拝」からきている。

われわれは、人に救ってもらうつもりはない。

人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(箴言29・25)

人を恐れるとかえって罠にはまるのだ。

恐れは、さらなる地獄を呼ぶ。

マイナスのスパイラルに入る。

サタンは恐怖を利用する。

中国や韓国が「歴史問題」をうるさく言うのは、「罪責感を利用すると日本から金を巻き上げられる」と学んできたからである。

元外務省のラスプーチンと呼ばれた佐藤優の話を聞くと、官僚がどれだけ及び腰かわかる。

「たしかに日中が戦争をやれば日本が勝てるだろう。しかし、その後、中国は戦争犯罪で責めたてるに違いない。これによってかえって日本の立場は悪くなる」と。

自分の領土を守るために戦って、勝って何が悪いのか。

それで非難されても仕方がないだろう。

もちろん、無用な虐殺があれば別だ。戦争犯罪だから。

そうじゃなくて、戦闘中にやむをえず人が死んだとしてもしかたがないではないか。

そんなことを恐れたら何もできない。

こういうことまで心配する必要はまったくない。

連合国は、原爆まで落としても謝罪したことは一度もない。

これまでの日本政府は「人を恐れる政府」であった。

外交においてこれは「ぼったくられ役」を買って出るようなものだ。

中国や韓国を恐れて、戦争責任を持ち出されると金で解決してきた。

一度で済むわけはない。

架空請求の犯人のように「こいつは脅かせば金を出すな」とわかれば、次から次へと要求を出して際限がなくなる。

「人を恐れると罠に陥る」のである。

解決は「主に信頼すること」である。

そうすれば「守られる」。

原文では「敵が届かない高いところまで持ち上げられる」というニュアンスの言葉(イェスガーブ=be inaccessibly high)が用いられている。
http://biblos.com/proverbs/29-25.htm
http://biblesuite.com/hebrew/7682.htm

ヤーウェの神に頼るならば、敵の手が届かないところにまで持ち上げられて守られるのだ。

人間を恐れるとさらに状況は悪化する。

しかし、神に頼るならば、誰もわれわれを攻撃できない。

だから、人間社会において失敗するとかどうでもいいことである。

むしろ、神の法を破る失敗を避けるべきだ。

それには「守り」はないから。

 

 

2013年1月17日



ツイート

 

 ホーム

 



robcorp@millnm.net