聖書から遠く離反してしまったこの時代に神が求めておられる人材とは
新興宗教では、信者は教祖に頼る。
しかし、クリスチャンは牧師には頼らない。
「○○先生の教会」という言い方があるが、イエス・キリスト以外の教会はない。
自分の人生で学んできたことは、ずっとこのことだった。
人間には頼れない。
自分にすら頼れない。
神は、クリスチャンに対して、人間への依存を断ち切るための訓練をされる。
そのためには孤独を味わわなければならない。
人に裏切られる経験を積まなければならない。
たとえ自分の指導者が倒れても、自分は倒れないくらいの強い信仰をつけるまで訓練される。
人間に頼る人々は、教理などどうでもいい。
彼らにとって重要なのは、組織の政治である。
人間関係こそすべてである。
しかし、本物のクリスチャンは、政治ではなく、教理にこだわる。
ある人からラッシュドゥーニーの信者のように思われたことがあったが、まったく違う。
自分はそういう任侠の世界は向いていない。
誰かの弟子とか、誰かの教え子とかどうでもいい。
もちろん、教えてくださった方々への感謝はしている。
しかし、人に従っていくという発想はない。
教えである。
誰がどうしたではなく、何を信じるか。
そこに徹底して至るまでは、苦労した。
普通の日本人として途中まで生きてきたし、教会も人間に頼らせるようなところがあるから、そういう発想から抜けられなかった。
人の言葉にいちいち動かされていた。
数とか比較とか。
しかし、聖書を読むと、預言者はまったく違っていた。
エリヤは、400人のバアルの預言者と一人で対決した。
バプテスマのヨハネは、一人で荒野で暮らした。
イエスは、誰にも依存されなかった。
神に対して自分はどうなのか?
これだけに集中していた。
モーセは、民から攻撃されたときに、真っ先に神の前に出て伺いを立てた。
今の教育体制では、依存的な人間になるのも仕方がない。
人と調和することを何よりも大切だと教えられる。
学級で孤立しないために努力する。
デューイの集団主義によって徹底して訓練されているからしかたがない。
いざとなると、人間に頼っている人々の本性が現れる。
普段は人当りがいいが、いざ自分の身が危うくなると、真理を捨てて大勢につく。
自分は大学に落ちてよかった。
名の通った大学に合格したら、社会への依存は強くなっただろう。
一流大学から一流企業へ進んで、退職した後に、自分がいかに組織に守られていたかわかる。
しかし、本当の強さは組織から離れて一人になったときに現れる。
今、個人商店を経営しているような状態だ。
仕事がいつなくなるかわからない。
そういう組織と無縁な生活が17年続いている。
この中で相当鍛えられた。
まったくお金がなくなったこともあった。
しかし、行き詰まることはなかった。
必ずどこかに道が開けた。
かえって人に頼って失敗したことが何度もあった。
自分の立場がメジャーであれば、どこかで教えたり研究する職につきたい。
しかし、今の一般の体制では、自分が加わると必ず騒動になる。
それはこれまでの経験からわかる。
既存のシステムは、もはや和合してやっていけるようなレベルではなくなっている。
聖書から遠く離反してしまったこの時代に、神は組織でうまくやっていける人ではなく、真理に固執して、組織や人間関係を無視できるような人を求めてられる。
2011年3月5日
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