紀元70年に死は滅ぼされた2


・・・しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
最後の敵である死も滅ぼされます。・・・(1コリント15・17-28)

1.

復活には順番がある。

(1)まず初穂であるキリスト

(2)次にキリストの再臨のときキリストに属している者

(1)は、キリストの復活において成就した。

(2)は、紀元70年に成就した。

兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。(1コリント15・50-53)

「私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」

紀元70年のキリストの来臨のときに、「死者は朽ちないものによみがえり」、当時生きていたクリスチャンは御霊のからだに「変えられた」。

私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、<主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。>このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4・14-17)

紀元1世紀の来臨の際に、まず「死んでいる人々」がよみがえり、次に「生き残っている私たち」が「雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会」った。

パウロは紀元1世紀に生きていたテサロニケの教会の人々に向けて「私たち」は「生き残っている」と断言しているので、携挙はこの時代に起きたのである。(*)(**)

携挙において、当時生きていたクリスチャンの体は御霊のからだに変えられた。

このときに携挙された人々は、そのまま天に移り、今でも御霊のからだでそこで生き続けている。(***)

2.

それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
最後の敵である死も滅ぼされます。

紀元1世紀の来臨の後に「終わり」が来た。

旧約世界は終了した。

世界を支配していた「あらゆる支配と、あらゆる権威、権力」は「滅ぼ」され、「すべての敵」は「その足の下に置」かれた。

キリストに逆らうすべての権力は、無力化された。

それゆえ、紀元1世紀以降、われわれが戦うときにサタンはわれわれから逃げ出す。

われわれの前で、悪の勢力は敗北するしかない。

そして「最後の敵である死も滅ぼされ」た。

紀元1世紀以降、「死」はわれわれを支配しなくなった。

キリストにつくすべての人々は死と無縁である。

われわれは、肉体を離れると同時に御霊のからだを与えられる。

紀元1世紀にテサロニケのクリスチャンに起きたことが、われわれにも起きる。

この肉体を持っている人生の間でも、われわれは死と無縁である。

それゆえわれわれに「ネガティブな思考」「悪霊の憑依」「病」「間違った教え」はふさわしくない。

それを追い払うならば、それに支配されることはない。

もしそれらに支配されそうになったら、「紀元1世紀以降、死は滅ぼされた」という事実を思い出すべきである。

3.

ディスペンセーション主義のように「来臨」を未来に設定すると、現在の世界を「まだサタンと死が支配する世界」と誤解する。

聖書は、はっきりと「来臨は紀元1世紀にあった」と教えているので、「現在の世界はすでにサタンと死が滅ぼされた世界だ」と考えることができる。

まさにコペルニクス的転換である。


(*)

もし起きなかったとしたらパウロはウソをついたか、預言は外れたということになる。

そして、そのウソや外れた預言が聖書に記され、2000年間クリスチャンはこの偽情報の記されたテサロニケの手紙を後生大事に聖書として信じてきたということになる。

これは、「契約を誠実に守られる神」という教理と矛盾する。神が2000年間間違った情報を与え続けたということはあり得ない。

それゆえ、われわれは「携挙は紀元1世紀に起きた」と信じなければならない。

(**)

ディスペンセーション主義者が言うように「再臨のキリストは地上に降りて千年地上で支配する」というのが再臨の姿ではなく、紀元70年の来臨は「空中再臨」であったと解釈すべきである。

そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒の働き1・11)

「この箇所は、地上に降り立ったと解釈すべきではないか」と主張する人がいるかもしれないが、このどこにも「地上に降りた」ことを示す記述はない。

後半の「天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」の原語は、

#gs#outwV eleusetai on tropon eqeasasqe auton poreuomenon eiV ton ouranon#ge#

https://biblehub.com/interlinear/acts/1.htm

である。KJVでは次のように訳されている。

shall so come in like manner as ye have seen him go into heaven.

「昇天と同様にやってくる」というだけで「地上に降り立つ」とは記されていない。

(***)

「それでは、地上にはクリスチャンはいなくなったのか」という人がいるかもしれない。

聖書には「生き残っているクリスチャン<全員が>携挙された」とは記されていない。

地上において神の国を広め、異邦人に福音を伝え、大宣教命令を実行するために残された人もいた。

 

 

2019年8月13日



ツイート

 

 ホーム

 



robcorp@millnm.net