恵みの契約と呪い


1.

聖書契約には大きく分けて2種類ある。

すなわち、業(わざ)の契約と恵みの契約である。

業の契約とは、「それを守ると永遠の命が、破ると永遠の死が与えられる契約」である。

恵みの契約とは、「イエス・キリストが達成された救いを信じることにより永遠の命を得られる契約」であり、「それを破っても、イエス・キリストの犠牲のゆえに原状回復できる契約」である。

2,

アダム契約は、業の契約である。

アダム契約において人類は、死の中に入った。アダムが契約を破ったからである。

そこで神は、人類を救うために、人類が受けなければならない刑罰をイエス・キリストに身代わりに負わせ、人類の立場を「罪を犯す前のアダム」にまで回復された。

さらに神は、イエス・キリストの「完全な業」のゆえに、報酬として与えられる「永遠の命」を信じた者すべてに与えられた。これにより人類は「契約を完全に守った状態のアダム」にまで昇進した。

このように、イエス・キリストによって、人類は2段階の回復を体験した。

この2段階の回復を自分のものにするためには、「恵みの契約」の中に入る必要がある。

この恵みの契約に入るのに必要なのは「イエス・キリストを救い主として、人生の主として信じる信仰」だけである。

誰でも信じるならば、2段階の回復を体験し、永遠の命を受けることができる。

3.


契約神学
カルヴァン主義は契約神学として知られているが、サットンが登場するまで4百年以上もの間、カルヴァン主義に立つ著者の中で、聖書契約がいったいどのようなものであるかを詳しく述べた者は一人もいなかった。これは、歴史の大きなアイロニーの一つである。法的拘束?しかり。個人的な絆?しかり。契約の一種?しかり。だが、サットンの著作が現れるまで、カベナントをコントラクトと法的に異ならしめるもの―とくに、自己呪詛の誓い―の法的な内容を明確に扱った著作は一冊もなかった。カルヴァン主義の神学者の中で、旧約聖書に立ち返り、そこから、しっかりとした、容易に識別できる、聖書に基づいて弁証できる契約モデルを引き出した者は一人もいなかった。私はこのことを1987年版の序文で述べた。一部の批評家は私が誇張していると考えたが、いまだに、その反証となるような歴史的証拠のコピーは私の手元に一枚も届いていない。(by ゲイリー・ノース。『That You May Prosper』の序文(1992年版))
https://www.garynorth.com/freebooks/docs/pdf/that_you_may_prosper.pdf

聖書契約は「自己呪詛の誓い」である。

「自己呪詛の誓い」において、「この誓いを破るならば、呪われてもしかたありません。」と約束する。

モーセ契約では「自己呪詛の誓い」をする。

「職人の手のわざである、主の忌みきらわれる彫像や鋳像を造り、これをひそかに安置する者はのろわれる。」民はみな、答えて、アーメンと言いなさい。
「自分の父や母を侮辱する者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
「隣人の地境を移す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
「盲人にまちがった道を教える者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
「在留異国人、みなしご、やもめの権利を侵す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
「父の妻と寝る者は、自分の父の恥をさらすのであるから、のろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
「どんな獣とも寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
「父の娘であれ、母の娘であれ、自分の姉妹と寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
「自分の妻の母と寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
「ひそかに隣人を打ち殺す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
「わいろを受け取り、人を打ち殺して罪のない者の血を流す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(申命記27・15-26)

民は「アーメン」と言って自分への呪いを誓った。

恵みの契約であるモーセ契約において、なぜ呪いがあるのか。

呪いは、アダム契約で終わったはずでは?

ノー。

恵みの契約の中にいる人々は「地を従えよ」とのアダムの元初の使命を回復したので、神のしもべである。

神のしもべである以上、賞罰があるのは当然である。

使命を忘れてのんきに振る舞ったり、御心に逆らうと矯正が働く。

クリスチャンになることは「救われた!万歳!これからは自由だ!誰の命令にも従う必要はない!」ということではない。

クリスチャンになることは「神のしもべになること」であり、それには矯正が必ず伴う。

洗礼を受けてクリスチャンになったら、自己呪詛の誓いを立てたことになる。

つまり「これこれのことをしたら呪われてもいい」という誓いを立てたのである。

これは、「入社契約書」にサインすることと似ている。

サインしたときに、その中の「社の規定に反した行動を取った場合に処罰を受けます」という一文を認めたのである。

4.

業の契約において、呪いの結果は「死」である。

恵みの契約において、呪いのそれは「死」ではない。

「死」はイエス・キリストがわれわれの身代わりに体験された。

恵みの契約の呪いの結果は「矯正」である。

クリスチャンは、呪いを通じて矯正され「さらに実を結ぶ枝」に成長する。

わたしの枝で・・・、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。(ヨハネ15・2)

5.

業の契約は、入社試験のようなものである。合格しないと、入社できない。会社と自分との雇用関係は絶たれる。

恵みの契約は、社内試験のようなものである。合格しなくても、雇用関係が絶たれることはない。

恵みの契約にいる限り、この社内試験はいつも行われる。

神はわれわれを放置されない。

神はわれわれを「役立つ者」にしようと常に訓練される。

訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。(ヘブル12・7)

 

 

2017年8月25日



ツイート

 

 ホーム

 



robcorp@millnm.net