非六日創造説は冒涜である


非六日創造説は、「創造は長い年月をかけて実現した」と唱える。

しかし、聖書では神は天地は六日でできたとする。

全能の神にとって創造に時間は不要である。

一瞬で万物を無から創造することも可能である。

イエスは、水を葡萄酒に変えられた。


それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた――彼は、花婿を呼んで、
言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。(ヨハネ2・1-11)

水がぶどう酒に変わるには、通常、長い時間がかかる。

ぶどうの木が地中の水を吸って実を結び、それを人間が摘んで加工し、長い時間発酵させようやくできる。

聖書は、この個所において「神にとって時間は関係ない」と教えているのである。

神は、時間と空間という存在の形式を定めた方であるから、それにとらわれない。

WindowsなどのOSを作ったプログラマーは、OSの存在形式にとらわれるだろうか。

OSの存在形式にとらわれているのは、アプリケーションだけである。

たとえば、(私が知る限り)マック用に作ったアプリケーションをWindowsで動かすことはできない。

アプリケーションは、OSという存在形式に制限されるが、プログラマーは自分が作ったWindowsやマックのOSに縛られない。

自由にいつでもどこにでも行ける。

神と被造物の関係は、プログラマーとOSの関係のようである。

被造物は、時間と空間という存在形式にとらわれているので、タイムマシンで未来や過去に行くことはできないが、神は自由に行ける。

神は一瞬で宇宙の果てにまで移動できる。というか、神の存在は無限なので、宇宙は神の中に含まれている。

時空を超越している神が、どうして創造に時間をかける必要があるのだろうか。

神にとって天地創造は一瞬で可能である。

わざわざ六日かけたのは、人間の模範になるためである。

人間は、「地球上に神の文明を建設するために作られた神の似姿」であるから、神と同じように六日の間に仕事をして創造活動をし、一日休むべきである。

聖書以外の思想は、神を超越者として描かない。

存在の序列の最高位に置くのが常である。

岩石→生物→人間→天使→神

のような序列を作る。

しかし、聖書では、神と被造物は「質的にまったく異なる存在」であり、神は、被造物の序列の中に含めることのできない「超越者」である。

非聖書思想は例えて言うと、神を「常に満点を取るスーパー・ウルトラ秀才」に描く。偏差値は常に最高。

天使は偏差値70。人間は60。猿50。猫40。ミミズ30。岩石20。・・・

違う。

聖書において、神とは、偏差値をつけることができない。なぜならば、超越しているから。

神は、出題者であって、テストを受けるべき存在ではない。

だから「神の存在を証明しよう」とか、「神は数学的に存在するはずはない」とか、そもそも神を証明やテストの対象として扱う態度そのものが間違いなのである。

いかに善意に基づいていたとしても、神存在の証明はことごとく冒涜である。

神は常に前提として扱わねばならない。

被造物である人間には「神は存在するのか?」と疑う権利はない。

「神は存在する」ということを前提として思考しなければならない。

神を超越者として認識することは義務であって、選択の余地はない。

超越者として認めたくない人は地獄に行くしかない。

「俺は日本の法律を認めない」と言って50キロ速度超過する人が逮捕されるように、神が創造された世界において神を超越者として認めない人は排除され、永遠の刑罰を受けるしかない。

非六日創造説は、神をテストして偏差値をつける類の冒涜である。

神を超越者として認めないからである。

聖書の神を信じる人は、例外なく、六日創造論者になる。

 

 

2016年9月5日



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