失うことを恐れるとますます失う


1.

漫画家の西原理恵子さんには、アル中の夫がいた。

彼女曰く「アル中を治せるのは医者しかいません。家族でなんとかしようとしても無理です」。

アル中がどのように破壊的なものであるか身近にそういう人がいなかったのでわからないが、彼女の発言は頷ける。

別人に変貌するほどの精神的な病にかかった患者を、家族が背負うのは無理である。

夫がアル中の場合、配偶者には、彼を専門家に委ねて、家族のメンバーに加えられる負担を減らす責任がある。

私は昔、逃げることを極力避けていた。

突然、結婚式でスピーチを指名されることが何度かあったが、初めてのときに、びっくりしてしどろもどろになった記憶がある。

こういう依頼も断ってはならないと思っていた。

学校でいじめにあうタイプではなかったが、もしいじめられたならば、自力で解決すべきだと思っていた。

しかし、今は、他者の助けを借りるなり、逃げるなり、自分の力を超えたことであればそういう手段を利用すべきだと思っている。

なぜならば、聖書は「責任は双方通行だ」と教えているからである。

一方だけが他方の過剰な要求や攻撃に対して忍耐せよと、聖書は教えていない。

責任はどちらにもある。

一方が責任を果たすならば、他方も果たさねばならない。

果たさない場合、他方は刑罰を負うべきである。

「どこまでも人を赦し、受け入れ、自分を犠牲にすべきだ」という教えは聖書のどこにも存在しない。

他者が責任を果たさない場合、彼または彼女を訴えるべきである。

こちらが誠意を尽くしても、相手が一方的に過剰な要求をしたりいじめをしてくるならば、こちらはその相手を権威に訴えるべきである。

相手の責任を追及すべきである。

『聖書法綱要』に次のような文章がある。


同じことは子が両親に対して負う責任についても言うことができる。繰り返すが、責任は一方通行ではない。この問題に光を投ずる一つの例話を引用しよう。ある娘に病気の父親がいた。兄たちが面倒を見ることを拒んだため彼女がその責任を負うことになった。彼女は敬けんなクリスチャンであり、父親を看病することに責任を感じていた。父は死ぬまで彼女の家で暮らし、十年以上もの間ほとんど寝たきりの状態であった。しかし、彼は自分の名前が付いた息子たちや孫たちにしか関心を持たなかった。そして、娘やその家族を軽んじ、感謝もせず、使用人に向かうような態度で接していた。父は息子たちとその子供たちをえこひいきして、祝祭日になると豪華な贈り物をした。しかし、娘や娘の家族には一言の感謝も、一つの贈り物もしなかった。明らかにこの娘の律法解釈には誤りがあった。罪深い息子が勘当され、裁きに委ねられなければならないのと同様に、娘の家族に対して責任を果たさないこの罪深い父(なぜならば、彼の行いが彼の心を表わしているからである)も、その家にいる資格を失うのである。
http://www.millnm.net/millnm/respo.html

「一方の責任だけを重視する」と、神の創造された秩序が崩壊する。

責任は相手方にも問わなければならない。

「死刑制度は反対です。殺人者にこそ手厚い配慮がなされるべきです」という人からメールがあった。

殺人者に責任を問わず、被害者にのみ責任を押しつけると、この世界は、殺人者の天国になる。

猿を保護すると、猿は増える。

殺人者を保護すると、殺人者は増える。

殺人発生率が高い国の特徴は、殺人者に対する保護である。

警察が機能しておらず、犯罪が利得を産んでいる。

金儲けに罪悪感を感じているクリスチャンがいる。

その教会では「清貧を尊べ」と教えている。

彼は、バンドマスターだったが、バンドの報酬として入ってきたお金を全部、メンバーに分け与えた。

自分の取り分がなかった。自分の生活のために、別のアルバイトをした。

仕事をしたら報酬を受け取るのは当然である。

神は「報いを期待しないで私に奉仕しなさい」と言われない。

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(マタイ6・6)

神のために活動したら、その報酬を神から期待すべきである。

「相互責任」は、この世界に働く法則であり、これが破られるときに秩序は崩壊する。

人体には傷や患部を治す自然治癒力がある。

傷ができたらそれを塞ぐシステムがある。

恒常性を維持するためのシステムが備わっている。

一方にだけ責任を押しつける社会は、傷を癒やさない社会である。

2.

自分が潰れるほどの過剰な責任を押しつけられたならば、それを専門家に委ねて、自分の能力に見合った仕事だけをしなければならない。

いわゆるモンスターペアレントが学校にやってきて心身ともども疲弊して本来の教育業務に支障をきたすようならば、そのモンスターを弁護士に委ねるべきである。

自分のところに直接彼らがやってきたら「弁護士に一任してあるのでそちらに行ってください」と通告すべきである。

過剰な要求と判断したら「業務妨害」として相手を訴えるべきである。

刑事訴追をちらつかせてそういったモンスターたちを牽制することも一つの手段である。

もし職場の上司が自分にだけ問題を押しつけてくるならば、職務契約を根拠に拒否し、それが原因で自分に不利益があった場合は、賠償訴訟を起こすべきである。

クリスチャンは神の国の秩序を破壊するこれらのモンスターに対して毅然とした態度を示さなければならない。

悪魔は隙を突いてくる。

こちらの弱点を見抜いてそこを攻撃してくる。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。(マルコ8・35)

サタンが狙うのは常に「自分のいのちを救おうとする弱さ」である。

「失うことを恐れる心」である。

失うことを恐れるとますます失う。

救われる道は「わたしと福音とのためにいのちを失う」こと以外ではない。

 

 

2018年2月17日



ツイート

 

 ホーム

 



robcorp@millnm.net